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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


23 空腹の技法 その4 contact Gonzo

 

 
 

 
 

 
<<いろいろな場所で踊ることについて>>

+建築家の伊東豊雄さんが、建築の基本は気持ちがいいと感じられてそこに留まりたいと思う場所を、さまざまな営みのためにカスタマイズすることだと言っています。contact Gonzoの場合は、ソリッドな材料も用いないし、カスタマイズというよりも、身体で場に運動を起こして去るわけですが、場所の選択に傾向なんかはありますか?

塚原:結果的には行き当たりばったりですね。なんとなくここでやろうと思って探しつつ、そこはやめて別のところに行ったりもします。この間話していたのは、人がいる所といない所に分かれているということですね。山奥河川敷竹やぶ。かと思えば、 梅田とか。

+そして今度は美術館。両極端という意味でしょうか?

塚原:後で考えてみると、やりたい場所とやりたくない場所ははっきりしている。でも地面の状況といった説明がつく場合はあるにせよ、そんなに考えずにやっています。2人で歩いているときに、「ここでやってみようか」ってやっていくと、お互いだんだんわかってくるときもあるし。

+意見が対立したりとかは?

垣尾:少しはありますね。そのときの反応も、やめることもあれば、「こいつが言ってるんならやってやろうか」ってやることもあるし。

+今までのパフォーマンスみたいに、劇場と路上とか、プライベートとパブリックとか、文脈化できるような区切りは意識していないんですね。

塚原:あまりそういうことは考えないですね。できるだけ今認識されているパフォーマンス・アート的なリテラシーには関わらないようにしようとしていて。言語化しようとするといろんなことが言えると思うんだけど、一番大事にしたいのは、牧歌的でいたいということなんです。アートがどうとか言う前に、うまいもん食いたいとか、好きな人と会いたいとかいうことと同じスタンスで、この人をしばきたいとか、乗りかかりたいとか、そういう方向からのアプローチなので、あまり頭よくならんとこうとしています。それをやってもなあ…と。

+それが聞いてみたかったんですね。というのは、アートの文脈で違う価値観のことをやろうとするときには、しゃべることとセットで活動しないといけないところがあって、意図的にそれをしないのであれば、それはそれで一つの態度となる。そのあたりがどうなのかなと興味があったんです。そうすると、You Tubeはまさにぴったりのツールとなるわけですね。誰もがアップできる。誰もが見る事ができる。もちろん好きな人は書き込みとかしたらいいわけだけど、一人の個人というか主体がコントロールできないところで、言説も生産されるという意味で。
では、どういった経緯でYou Tubeを利用することになったのですか?

塚原:僕は結構はしゃいだ気持ちであげました。もともとYou Tubeが好きでよく見ていたんですけれど、まあ、映像撮ったし、流す手段(パソコン)があるから、流して反応する人は絶対いるはずだから、家族にも流したり、 mixi で流したり。これに共感してくれる人というか、潜在的なコンタクト・ゴンゾイスト?というか、ピンポイントで反応してくれる人がいるから、それが一番いい手段かなと思ったんです。ただやし。(笑)例えば、パフォーマンス、動きはもちろん生がいいんだけれど、映像を見てもらわないと伝わらないところがあって、一つの例としてアーティストの映像をwebにアップするサービスがあったりするけど、会員になったり、お金を払わないといけなかったりしますよね。よくも悪くもYou Yubeは著作権物も流せるから(俺らは著作権物は使わないんだけど)、そういう細かい事を気にしないのが、あのサイトは好き。まあそれも問題にはなってきてはいますが。

+1年目にアップしたタイミングはすごいですね。これからはいろいろ規制も入るかも知れないから。議論はあってもどちらに転ぶかわからない、そして誰もコントロールできない段階。さらに、見る人の潜在的な欲求に訴え、空間にしばられずに人とつながるツールになり得る。垣尾さんも抵抗はなかったですか?

垣尾:そうですねえ。彼にこんなんあるよって言われて。別に抵抗なく。

+どうしても垣尾さんをダンサーっていう目で見ちゃいますね。(笑)編集が入るからということもあって、ダンサーさんは映像に撮られることにまず抵抗ある人が多い。それを、どういう枠組みで、どういう視線に晒されるかもわからない You Tubeでなんて、抵抗はなかったですか?

垣尾:ちょっと前まで、映像信用できません神話って結構ありましたよね。映像がめちゃくちゃかっこよくて、本物見たら「なんやこれ?!」って(笑)ことがすごくあったから。踊ってる時の自分の感じとそれを映像で見たときとは何かしらギャップはありますけどね。

+一番シンプルな映像フォビアの理由としては、ダンサーが自分で映像機器を扱わないっていうこともあるかと思います。

塚原:それは大いにありますね。You Tubeだけで状況はかなり変わるとは思うけど、まあそれは各々で売り込んでくれたらいいことなので。自分はこれをやっているときは、どういう手段で人に届けるかということを考えたときにこうなっただけなので。それは自分たちで考える。

+では次に、美術館でやるという選択についてですが、どういう経緯でこのプロジェクトに応募されたのですか。

垣尾:何?何やったっけ?何やった?塚原くんがチラシを持って来て、「応募せえへん?」って。

塚原:うーん。何か、足場を固めるというか、contact Gonzoにどっぷり浸かるとか、それは何なのかとか。これに通ったら半年間の活動期間のサポートを得られるから。タイミングとしてはいいんじゃないかと思いました。

+続けたいという気持ちで。

塚原:続けたいとは考えない。続くだろうと。contact Gonzoを発見して日が浅いので、人の手に預けるというか、たまたまキュレーターの方を知っていたこともあって、これがどう見えているのか興味もありました。オフィシャルな場でcontact Gonzoを紹介しつつ、考え直すタイミングとしていいんじゃないかと思いました。

+で?どうでした?

塚原:まだ終わったばかりだしなぁ…。

+そうですよね。確かにたった今終わったばかりで、これから振り返ってどうなのかってところかとは思いますが、今の時点でいかがですか?とりあえず、パブリックな場所、それもアートという文脈。具体的には他の美術展示の中で、アートを見に来たお客さんがいたときに、どう感じられたのでしょう。

垣尾:こういった場所と、接触の技法で、押して押されてということが、ちょうどいい塩梅でできたし返って来たという感触があるので、4月から行うスタジオ・ワークが楽しみです。

塚原:あんまりここがどういう場かということはあえて考えずに乗り込んで来て、搬入の日にここは現代アートの場なんだっていうことに気づいて、すごいなあと思ったんですね。まあでも、場所が変わって変化する事もあるけれど、しない事もあるから。一人でやってて不安なこともあるんだけど、殴られると「ああ、来た来た」ってなって、あとはやるという感じです。映像で見ると、美術館でいきなり蹴ってるとかが変な風に見えるんだけど…。

+今後はどんな風に展開してゆければと思われていますか?

塚原:ダライ・ラマに会ってcontact Gonzoを観てもらう事と、ナイキとのテレビCM提携です。ファッション・デザイナーのアレクサンダー・マックイーンのコレクションの一部としてcontact Gonzoをやる、といったこと等を実現させたいです。牧歌的スタンスのまま。謙虚に。



インタビューを終えて

自分たちのしていることを、ダンスとは思わず、アートであるかどうかもわからないというcontact Gonzoのお 2人。インタビューに臨んだ筆者の、見る人と見られる人の間にダンスが成立するという前提の違いを、見事に突きつけられた格好となりました。それは、その人の制作の流れを長い時間で理解しないとなかなか見えてこない動機や筋道などを、言葉で聞き出そうと逸ったからでもあります。が、狭い意味での舞踊史を手がかりに、このような価値観をぶつけてみたときに面白かったのは、お2人の活動が、先行世代とは違うことをすることに意義が認められる一方で、そうすることで舞踊史の延長線上で位置確認がなされもするコンテンポラリー・ダンスとは、全く違う意識にもとづいていることでした。

いずれにせよ、concact Gonzoのパフォーマンスが、美術展示の中でお客さんとの、インタラクションとさえ言えないような微細な反応を呼び起こし、場の空気を変えてゆく様はとても興味深いもので、今後彼らの活動が、さまざまな「場」によって喚起された意識にどのような変化を被ってゆくのか、あるいは変化しないのか、彼らを「アート」という場にどんどん放り込んで、その経過を見てゆきたいという妙な鑑賞意識をかきたてられました。

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