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a[ ] Kozo Inada CD by Staalplaat (Netherlands)
   
  b[ ]+2.7k Kozo Inada & 0* CD by V2 Archief
(Netherlands)
   
  c[ ] Kozo Inada CD by Selektion (Germany)
   
  d[ ] Kozo Inada CD by Staalplaat (Netherlands)
   
  e[ ] Kozo Inada CD by Digital Narcis (Japan)
   
  f[ ] Kozo Inada & Philip Samartzis CD by Digital Narcis (Japan)
Web Shop http://www.digitalnarcis.com/
海外公演を通して、日本の音楽または音楽を含める日本の文化についての印象は?

日本の印象は「固定観念」です。固定観念の集まりから出たような、押さえつけられているわけでもないのですけど、変な押さえつけられ方をされたことで生まれた極端なものが存在している場所。フレンドリーでない反面、アグレッシブなひずみにより出てしまった部分が海外にピックアップされていると感じます。決して自己中心的ではないのですが、日本人は裏と表を使い分けて、例えば謙譲語とか尊敬語を使って、気づかれないように仕向けますよね。それが逆に締め付けてしまう場合が多いように思えます。そこから産み出されるものは極端なものか平均値にいるものしかない。海外では、伝統的なものと前衛的なものがちゃんとつながっているように感じられ、日本のように両者に全く関連性がないのに、何故でてくるのかわからないということをいわれることがあります。確かに日本では単に個人から発信されているだけで、そういったシーンはないと思います。また、海外では自由な受け入れ態勢があると思うので、このような音楽の演奏会場にも子供連れで聴きに来ていたりする。そこが違います。だからこそ、ここからは極端なものが生まれる。プレスに関しても、自分達が理解できない事に関してはあまり批判はしませんしね。そのまま受け入れる。

ということは、日本と海外では聞き手に違いがありますか?

海外だと、聞き手はそれが何かわからなくても期待してやってくる。でも日本では最初に宣伝などで売り込んで、こういうふうに聴くんだとか、例えば、テレビの走査線の走る音と同じ15.75khzという周波数を使うのは、僕がテレビ世代だからという意味がある…ということを仕掛けとして提示したり、方向性を示さないと受け入れないという印象があります。自分で処理しきれないので、何かを調べたりして理解する。でも海外の聞き手は、自分で処理して、それがいいか悪いか自分で決めることができているように思いますね。善し悪しでいえばどちらも同じですが。

演奏中、何をしているんだろうと思うことなんてありますか?

あります。いつも思うことなんですが、特化しすぎたことをすると、何をしているのかわからなくなるのも当然だと思います。処理が自分でわからなくなることもあります。例えば、電車の中の会話で、経済の話をしていて20分ほどして道路の話になって話題がそれていく。それた部分でいきすぎてしまう感じです。そこから何かできたらよいと思いますが、表現の場合ここを調べてこうすればOKというのがないので、しょうがないことだと思っています。何かを調べて解決策があるなら何をしているのかわからなくなることはないのでしょうけど。変えていかないとだめですね。そうなったときは戻ってみないとだめなのですが。
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