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(III)声と言葉の日曜日[旧称えるび](2002年10月から2003年3月まで。月1で全六回。)

http://www.kanayo-net.com/LB/index.html

cafe' MO
 『声と言葉の日曜日』(以下『声日』と略記)は、普通に生活している人が自作詩を人前で読む、つまりは詩のリーディングの会である(注15)。場所はcafe' MO(http://www.cafemo.jp/)。前述のアンズギャラリーの近く、南船場近郊に位置する。街中のカフェがリーディングの会場へと転用されている。同様の試みは、既に為されていた(たとえば、扇町Talkin'Aboutの一環である『ポエトリーリーディングの夕べ』にて。けれどもこちらは、2003年に入って以降、扇町Talkin'Aboutの一環であることをやめ、従前の月一から二月に一度の催しへと転換されるとのこと。あるいは、神戸の『JAMJAM』での会。)とはいえ、関西にてはリーディングの会は未だ少ない。この状況を変えることが目論まれ、『えるび(language ballの略)』(後に『声日』へと改称)の始まりとなった。
会では、毎回定められたテーマ(「ライフスタイル」「出会いなおし」など)に即し、事前に出演者が詩をつくり人前で読む。詩を読む者は二名であり、他にミュージシャン等、詩とは別のジャンルの表現者が一組出演する。出演者は、主催者の一人である詩人上田假奈代(http://www.kanayo-net.com/)が行なっている『詩の学校』の生徒が多い。彼ら出演者の多くは、詩の専門誌に投稿したり詩集を出したりするほどまでにのめり込む者ではない。その限りでは、普通に暮らしている人である。彼らにとりこの場は、少しでも詩に接し、かつ創作し、のみならず複数の人(自分の知らぬ人をも含めて)の前で声にすることを可能とする、表現の場である。
けれど、この会は、表現したからといって必ずしも表現者にとり、満足をもたらすものではない。上田假奈代は言う。「今までで、お客にとっても出演者にとっても、いいイベントになったと思われるのはマレなのよ」と。それは、オープンマイク的なリーディングの会とは異なる。すなわち、幾人もが順次読み講評もそこそこで終わってしまう、馴れ合い的な、ただ読む者の欲求を充足させるだけのものではない。まず、『声日』では出演者は少ない。しかも、わりと長い時間(通常オープンマイクでの持ち時間はが3分程度であることを考えると15〜20分の持ち時間は長い)、20人から30人程度の人前で読まなければならない。詩だけ、何本も立て続けに読むだけでは間がもたない。何ゆえこの詩を読むのか、何が自身において問われているのか等々を自分で考え、しかも聴く者に対し言葉を投げかけ、観客と遣り取りしつつ(その遣り取りは、必ずしも己の意図したとおりに進まず、聴く者の反応に応じ、機転を聞かせる必要があるだろう)、とにかく《場》をつくらなければならない。
 一人よがりでは、聴く者に何も届かない。かといって彼らに媚びて、奇を衒ったり安易にわかりやすい表現をしたところで、ありきたりなだけで無難な、面白みの無いものとなりかねない。そこに立つ者は、単数であれ複数であれ、相手へと表現することの意味につき考えるよう強いられるだろう。
 たとえ常日頃学生であってもOLであっても、その場に出るのであるからには、表現者としての自覚が求められる。聴く者が居るのであるからには、表現者は己の表現につき、意識的にならねばならないはず。こういった自覚の有無は、そのまさに読む場において、表現の巧拙として如実に顕わとなるだろう。『声日』では、こういった巧拙を馴れ合い的に隠蔽しない、厳しい会であることが志向される。つまりはそこに予定調和は無いということになる。(もちろん、助けを求める出演者が居るなら、上田假奈代は主催者であり、それ故アドバイスしたりする。けれど、実際本番となると、彼らは一人でやらねばならない。)出演者は自由に表現出来る。けれどこの自由は、聴く者との関わりにおいて、上手く場をつくることにおいてのみ許される自由であると言える。
 聴く者の反応において、共感が、感じられないとしたら(有り体に言うなら、『寒い状態』)、その理由、自分において何が駄目だったのか、後々考えるきっかけとなるだろう。それはそれで有益だ。日常生活の場に戻っても、何かしら益するものとなるかもしれない。詩を読むこと、これはたとえそれが充分に詩となっているか否かは問わずとも、少なくとも表現の場という、日常からは一瞬であれ時‐空間的に隔離されている非日常の領域における経験となる。
けれども、言葉は詩でなくても、日常的に普通に使われている。事物は名により指示される。また人は、命令したり、説得したりするために、あるいは愛情憎悪等己の様々な感情を、一人もしくは複数の人へと伝えるために、言葉を使う。そしてまた言葉はさまざまな状況において使われる。政治の場、売買の交渉など、真剣な状況、気晴らしや社交のための会話など、際限がない。同一の単語でも、状況が違えば、あるいは交し合う間柄が、友人同士、仕事のパートナー、師弟と異なるならば、その意味は変わるだろう。
少し考えただけでも、言葉はとても不思議である。けれども我々は普通、言葉があまりに身近なので、その不思議さについて気づくことなく無自覚に暮らし、それを使っている。小説家の肩書きを持つ者でなくても、哲学や文学を専門的に研究する者でなくても、言葉については誰であれ考えることが出来るはず。けれど、それがあまりに身近であるからかえって、それにつきしっかり考えるようになる者は、もしかしたら少ないのかもしれない。けれど、そういった身近なところを踏まえないでは、何であれ、考えても、行動しても、空疎になると思われるのである。
『声日』は、常日頃無自覚な言葉への慣れの状態につき反省し、その不思議さ困難さ等について考えを廻らすきっかけとなり得るのではなかろうか。日頃我々は、言葉を人と遣り取りしている。服の着こなしと同様、日常の言葉使いにも、人それぞれのスタイルがあろう。それもまた、相手との関わりにおいて成立する表現行為である。つまりは相手に応じて、その装い、使いかた、色々変えなくてはならない。詩を人前で読む、そこでは己の表現力の有無が問われる。そこで判明する己の才覚の度合いは、もちろん日常の、己の生きかた、表現力と、関わりを持つ。詩を読むと、日頃の己の生きかたが、問われることになる。そこでは己の表現力そのものが問い直される。聴き手に届かぬ朗読であるとしたら、実生活そのものにおいても、実は、表現に難があるのではなかろうかと、反省にいたるきっかけになり得る。
そもそもここにて目論まれるのは、関西におけるリーディングの会の普及である。けれどももう一つ、《「言葉の遣り取り」の実践機会を、詩という、日常言語と別の言葉(十分そうなるかはつくり手の力量如何だが)を行き交わせる場として設けること》もまた目論まれていると考えられるだろう。こういった機会において人は、日常でない領域にただ参加するだけでなく、実際それを自分でつくらなくてはならなくなる。主体的に責任を担い、参加するのである。
そこで得られる経験は、言葉について、他者への表現について、そして自分自身について、考えるきっかけとなるだろう。

[『声日』は3月まで続く。これが今後、会としてどうなるのかについては、未定であるとのこと。また、筆者は第四回「出会いなおし」に、聴く者として参加した。上述のレポートは、このときの印象と、上田假奈代の談話を踏まえつつのものである。]

結語

本稿は、2002年7月から、2003年2月中旬にいたる期間、筆者がおこなった調査を踏まえてのものである。当初、大阪市内にて活発化しつつある諸々の芸術文化活動につき、見聞したことを網羅的に、可能な限り多く書き連ねるという方針のもと開始されたのだった。けれども、調査を進め考察を展開するにつれ、それら諸活動は幾つかの傾向に分類可能であることに思い至ったのである。すなわち、その発生のきっかけにおいて、何が問題とされるのか、および、その問いかけの深浅に応じて、表面上は同じに見えていたり、同じ名目が唱えられていたりしていても、実際行なわれている内容、その水準、今後の展開可能性等からすると千差万別であることが分かりかけてきたのである。
それゆえ十月の半ばより方針を変更し、それら活動につき表面的になぞるのではなく、何かしら、そこにて問われていることへの解決として行われていると捉え直し、何が問題とされているのか、各々の担い手の方へと質問し、また当の問題につき筆者自身も一緒になって考えて、それを踏まえて状況につき報告することにした。彼らの抱く状況認識、および問題意識が真摯であるなら(真摯に問うて行う者は、こちらのきつい質問にも、しっかりと応じてくれた。彼らは、論点をはぐらかすことなく、上手く行っていないところをも含めて答えてくれた。)、それを理解しようとするに際しては、こちらも安易な態度をとるべきではない。だから、紹介すると決めた事例については、関連する文献等を読むなどし、じっくり考えながら書かなければならない。このように方針を定めたからか、紹介し得た事例の数は少なくなった。けれど、精選したからか、扱った事例についてはある程度しっかりと述べることが出来たのではなかろうかとも考えるのである。
もちろんあくまでも「ある程度」であり「十分に」ではない。彼らによって提起され、解決が試みられる課題については、さらに考えるべきである。それらは、ただ個人的な述懐とか、そういうのではなく、今生きている人なら誰であれ、関わってくる問題を巡って提起された課題であると筆者は考える。だから、ここまで読んで下さった方に、こう呼びかけて終わりにする。「もしも、ご自身の関心からして引っかかることがあったとしたら、実際そこを訪問して、彼らと一緒に考えていただきたい」と。そうして、かりにもし、ここに紹介した諸々の活動のさらなる展開のきっかけとなるなら、本稿も、何かしら任務を果たしたと言えるのかもしれない。

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