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曖昧な社会人になるための働き方思案


第1回  何を“仕事”と呼ぶか

同業者に喧嘩を売るようなもの言いをしてしまったが、当然ながら芸術家という仕事も社会との関わりを避けることはできない。それどころか、ヨーロッパでは文化的な側面において社会循環における極めて重要な役割を果たす職業であると位置づけられている。ここで注目すべきは「文化的な側面」という点で、これはつまり芸術家という仕事が資本主義とは別の文化という文脈において立脚しているという事を意味している。もちろん十把一絡げに「芸術家」といってもいろいろなのだけれど、基本的にその営みは収入とは無関係にまぎれもなく「仕事」なのである。ここで誤解を避けるために書いておくが、それがドイツであってもフランスであっても芸術家が貧乏であることにかわりない。もちろん制度面での多少の格差はあるだろうが、基本的に芸術家という仕事は資本主義からすればないに等しいほどにちっぽけなものである。にもかかわらず、それが文化という文脈においてそれなりの位置社会づけがなされているのは、彼らの仕事が一種の社会事業であると考えられているからだ。だとすれば、「美術家」である私も、ヨーロッパにいけばさしづめ「社会事業家」ということになるのだろうか。

この「社会事業家」という仕事のあり方は、私自身のことと照らし合わせると非常にしっくりくる。正直なところ、美術家をはじめとする金にならないもろもろの仕事に対して、私はなんと呼べばいいのか長い間にわたって悩まされてきた。日本では芸術全般を「表現」といった言葉で一括するような風潮もあるが、誰もがインターネットを通して表現が可能になった現在において、それを仕事と位置づけるにはかなり無理がある。むしろ社会との関わりの中で、市場経済のシステムだけでは機能させることが難しくなった社会の機微を、末端からフォローしていく活動であるととらえるほうが納得がいくだろう。さらにつっこんで言うなれば、社会事業家を展開するわたしという人間は、もしかすると営利を目的としないという意味合いにおいてNPOのようなものなのかもしれない。いや、もちろん月に一度の焼き肉は欠かせないのだが、別に六本木ヒルズにアトリエを構えたいとは思わないし、ロックスターのようにいくつも窓がついたリムジンに乗りたいとも思わない。ただ、だからといって私も霞を食って生きているわけでもないので、それなりに経済活動には荷担していかなくてはならない。それは私という個人を継続させていくという意味においてNPOとまったく同じである。

このような理解に立てば、われわれが「仕事」と呼ぶ営みが必ずしも営利を目的とするイコールではないということが言える。「金を稼ぐための仕事」と「社会参加のための仕事」。もちろんこの二つはときに共存し、ときに分離する。ただ不幸にもそれが個人の中で分離してしまった時、人は「曖昧な社会人」にならざるを得ないのかもしれない。なんともめんどくさい話ではあるのだけれど、ま、それもこれも「仕事」のためである。

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