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曖昧な社会人になるための働き方思案


第1回  何を“仕事”と呼ぶか

まずは、状況を考える事から始めよう。そもそもわれわれはなぜ仕事をするのだろうか。「働かざるもの食うべからず」なんて言葉もあるけれど、もはや時代はすでに十分すぎるほどに豊かで、働かなくてもなんとか生きていける人だって少なくはない。とりわけ私と同じ昭和40年代生まれは、親が会社に対してもっとも滅私奉公的に働いた世代で、打算的に遺産を期待できる人も多いはずだ。乱暴なもの言いになるけれども、もし家が金持ちであるのならば、なんとか親のスネをかじりつづけながら親が死ぬのを待てばいいだけの話である。いや、もし仮に家が金持ちでないにしても、このご時世たとえ働かないとしても食えなくて死ぬというのは考えにくい。次元の低い話で申し訳ないが、倫理的な問題をのぞけばとりあえず「仕事をしなくてもなんとか食える」のである。ただ実際、何を食おうか何を着ようかと毎日思い悩むのはかなり厄介であるし、たまには焼き肉など腹一杯を食いたいと思うわけで、やはり今も昔も貧乏は避けて通りたい道ではある。やはり金のため仕事をするというあたりは基本的には変わらない。

ただ、当然ながら仕事は金を得るためだけに行うものではない。言うまでもなく、人は仕事を通していろんなことを実現したり学んだりしながら成長していくものだ。このことに対して私もなんら異論はない。しかし、だからといってそれが仕事をする直接的な理由になるだろうか。なぜなら、仕事でなくても……たとえばそれが趣味や遊びであっても、人は何かを実現したり学んだりすることが可能だからである。仕事と遊びのどちらをとるかと言われれば、多くの人は遊びをとるだろう。にもかかわず、人は仕事をすることにほぼ無意識に同意する。ちなみにこれは個人的な見解だが、資本主義における既存のメソッドに則っておこなうビジネスよりも、むしろ自分でメソッドを生み出していく遊びの方がはるかに実現したり学んだりすることは大きい。

とすれば、仕事という営みは個人の自己実現よりはむしろ社会参加にこそあるのだろうか。社会に参加するために仕事をする……確かにそう考えれば、われわれがなぜ仕事をするのかということに関してはずいぶん納得がいく。それこそニート的な話になるけれども、家にこもって一人遊びを繰り返したところでその面白さはたかがしれている。仕事は少なくともクライアントがいなければ成立しないし、仕事の規模が大きくなればなるほど関わっている人の数も増えるし、そこで動く金も増えていく。ひとりでは決して動かすことのできない仕事という名のダイナミックな潮流。そんな中にあってこそ、人は社会という抽象的な存在に対しての具体的なイメージも持つ事ができるのだろうし、またそれによって社会における自らの立ち位置をはっきりさせていくのかもしれない。家にこもってひとりで自己完結できるのは、村はずれで人目を避けて暮らす芸術家くらいのものである。

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