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明治37年、日露戦争に世情が沸く中、歌舞伎のもと大部屋役者であった曽我廼家五郎、十郎が曽我廼家喜劇を旗揚げした。今の新生松竹新喜劇の前進である。その一員で今最も注目の人、曽我廼家寛太郎さんにお話を伺った。

新喜劇の世界に入られようとしたのは何歳の頃ですか?

大学を卒業する直前ですね。大阪芸術大学の舞台芸術学部の舞台芸術学科、演技専攻というところに行っておりました。新劇を学ぶところでね、西洋のシェークスピアとかね(笑)

いや、意外と似合わはりそう。シリアスな悪役とも拝見してみたいし…。

悪役。悪役なあ〜。卒業して新喜劇入ってからですよ。こんな私になったのは(笑)

(笑)もともと、そうだったんじゃないですか?怪しい…。

(笑)もともと喜劇志向ではあったんですよ。あったんですけどね。演劇するにも勉強せなあかへん。大阪でそういうの教えてくれる大学はそこ位でしたからね。

じゃあ、高校生の時から芝居をしたいと思ってはったんですか?

そうですね。いきなり劇団入っても何も出来へんやろう、みたいに思ってたんですね。

ご両親は演劇関係に進みたいという学科の選択に、反対とかされなかったですか?卒業後の仕事が見えない厳しい世界ですし…。

両親の方は全然問題なかったですね。好きなことやれという感じで言うてくれました。それはもう恵まれましたね。けど、僕らの学科でも俳優になったというのは少ないですよ。僕らの後には筧利夫くんとか羽野晶紀ちゃんとか藤吉久美子ちゃんとか、劇団新幹線の流れがありますけどね。

そこでは演劇論だけでなく、実際に身体を使うというのもあるんですね。

そうです。実技もありましたよ。週に何度かクラッシックバレエのレッスンとかもありましたよ。僕らもタイツはいてバーレッスンとかしてましたよ。

それはタイツ姿を想像させたい狙いもあっておっしゃってる(笑)?でもバレエは姿勢とかのためにも大事でしょうね。で、卒業後、そのまま松竹新喜劇に入団されたのですね?

はい。募集があったんですよ。2、3月の間際でした。もう皆大体就職を決めていて、誰それが青年座いくの決まったらしいで、とか、そんな話をしてた頃です。私はまだ決まってなくって、東京の劇団言うてもピンとけえへんのですよ。こんなもっさりした男が標準語喋ってもなあ〜思うてねえ。その時に見たんです。松竹新喜劇劇団員募集、初任給8万円。女性は8万5千円。

えっ、女性の方が高いんですか?

女性の方が化粧品代がかかるのでね。

へえ〜。それがいつ位ですか?

昭和56年頃ですね。藤山(寛美)先生が52、3の頃でしたから。

関西での歌舞伎が厳しい頃ですね。松竹新喜劇は全盛期?

全盛期と言うにはちょっと後かな。でも12ヶ月やってましたしね。

同期は?

僕より一月早く入った山椒の会にもでている関口義郎くん位ですね。同期とかもいましたが辞めてしまいましたねえ。松竹新喜劇は誰かの知り合いで、とかそういうツテで入ってきた人が多かったです。

新喜劇に入って喜劇をされるというのに抵抗はなかったんですか?

さあ、それですわ。大阪で新劇言うても青年座や文学座みたいな一般に広く知られた劇団はないし、そしたら発想をポーンと変えて松竹新喜劇。藤山寛美さんいうたら、年間長者番付でもよく見る名前やし(笑)、これはどっかに凄いところがあるんとちゃうかな?、この藤山寛美という人が凄くなかったら、そんなにお客さんも入れへんやろ、その人を傍で見てみたい、そんなところからペロッと入ったんですわ。

面接はどんな感じでしたか?

大学から連絡してもらって、面接は中座の藤山先生の楽屋でしてもらいました。藤山先生が、あっどうぞ入っとくなはれ(笑)、と言われて、失礼します、って感じでした。

そんなに藤山寛美さんという方を知らなかったから、余りビビらずに済んだんですね。

ええ、ビビりませんでしたね。今でこそ藤山寛美先生って感じですが、先生も、あっ座布団あてとくなはれ、とか、役者は人様が遊んではる時に頑張っておまんま食べさせてもらえる仕事でっせ、とか、敬語で話してくれはりました。ここは歌舞伎みたいに家柄も関係ないし、家族に刑務所に入ってはる人がおろうが関係ない。要はアンタが汗かいたら汗かいた分、銭取れまっさかいな(笑)…みたいな話をしてくれはりましたね。その話を伺って、そうかこんな自分やけど、この世界は向いてるのかもしれへんな、と思いましたね。

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