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先生と歌舞伎との出会いを教えて下さい。

それがねえ、よく聞かれるねんけどわからへんのよ。しいて言えば、赤ちゃんの時から。お母さんのお腹にいる時からだと思う。

先生の生家は京都のお茶屋さんだったとか…。

祇園の新橋で「美濃今」っていうお茶屋をやってました。昔は川を挟んで両方にお茶屋が並んでねえ、それが疎開でどかされて末吉町っていう所に移ったんですけどね。

そこに住んでいらっしゃったのですか?

ええ。住んでましたよ。お茶屋で置屋もかねてて、僕よりだいぶ上の姉も舞妓さんで出てました。ですから、子供の時から自然に邦楽とか、井上流の舞とか、当たり前に耳に入ってきて、それが日常やったね。
僕が子供やから、舞妓ちゃん達がいらうのよね。例えば顔見世に行ったりとかして「河庄」やってたら、帰ってきて僕の顔に白粉塗って頬かむりさせたりして・・・おもちゃやね(笑)。

あそこは甲部ですよね。華やかな都おどりですね。

そう。僕がレビューが好きなのもそれに影響受けてるのかも知れんね。

そうした環境でしたら、かなりおませな子供さん?色々な女の人生も見てしまいますよね。

そうですね。女の人の扱い方とかもね(笑)。
親から、「祇園町は女の世界やから早く出て行きなさい」とは言われてました。
伊左衛門
ご自身が「芝居が好き」と意識されたのは何歳位の頃だったのですか?

小学校の学芸会とかは張り切ってたし、中学1年の時に「演劇やるけど誰かおらんか?」という時には手を上げてましたからね。演じることも好きだったんですよ。

「祇園やなくて商売の町の学校に行って良いお友達作って」という親の考えで、小学校時代は木屋町の立誠小学校というところに越境しててね。そうすると木屋町のどっかに住んでるということにしなあかんでしょ。で、その住所を僕の叔母にあたる人、京都で一番の、地歌の萩原正吟というお師匠さんの所にして貰ったんやけど、その人は跡継ぎいはらへんから「養子になり」と言われて、それで地歌をちょっとやってたこともあるんですよ。
けど、お稽古場は女の人ばっかりで照れ臭いし、「いやや」言うてね。養子に行ってたら今頃は関西の地歌界を背負てるんやけどね(笑)。

振り返ってみるとそういう選択肢は何度もあったね。
小学校の時は南座で歌舞伎がかかってるというと、いつも学校の帰りに看板をジィーと見てて、劇場のお姉さんが「そんなに好きなん?」って言うて中に入れてくれはって親が迎えにくるみたいなことやったから、親も「もう役者にせなあかんな」言うて、3年生の時にある役者さんの養子に入る話もあったけど、僕が病気してあかんようになったりとかね。
まあ、それは今思うと、本当は親元を離れたくなかったから病気になった気がするけどね。

大学で商学部を選ばれたのは、稼業のためにではないのですか?

本当は文学部に行きたかったけど、親が許しませんでした。あんだけ芝居とか見せてたのに、堅気のサラリーマンになって欲しかったみたい。
それと親にしたら、芸事始めるのやったら早い方がええということは分かってる訳やから、「小学校の時、何度もそうした話があったのに断ってきたやないか」っていうのもあったと思います。僕を同志社に入れたのも大学までスッーと行って欲しいと思たからやろうし、で、僕は親思いの気の弱い子でしたから(笑)、そのまま大学に行ってました。

でも、芝居はしたかった。
十三代目の仁左衛門さんが同志社の講師に来られてたこともあって、相談したりもしたけど、昭和30年代後半あたりは関西歌舞伎がどん底の時で芝居もかかってへんし「諦めなさい」と言われました。
その大学生の時に、嵐徳三郎さん、当時の大谷ひと江さんに学園祭に来てもらったりして親しくなって、しょっちゅう芝居の話をするようになったんです。

それで大学を卒業されてどうされたのですか?

会社に就職しました。営業で、フェザーっていう剃刀の会社。営業行く言うて芝居見てたりもしたけど(笑)、ええ会社で待遇も良くてね。

松竹とか東宝とか、舞台に関わる会社に就職されようとは思いませんでした?

その時は自分が芝居がしたい、っていう思いやったからね。国立の研修制度は僕が大学を卒業して3、4年経って始まったし、運の悪い男よ(笑)。

研修制度が出来た時に、応募することは出来なかったんですか?

22歳までの募集だからね。上方歌舞伎塾の募集年齢を26歳までにしてるのはそうした思いがあったから・・・。

そうですね。社会人になってみて、はじめて、あらためて、したいことが判ることってありますものね。

そう。どうしてもやりたいってことあるからね。二期生なんかはそんな子が多いでしょ。