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現在の日本に、現代美術におけるサウンドアートと現代音楽の狭間を揺れ動くかのような動きを見せる音楽があります。それらはいまのところ、エレクトロ・アコースティック・ミュージック [Electro-Acoustic Music / 電子音響] と称されています。ラップトップ・コンピューター(ノート型パソコン)・ソフトウェアの品質向上と普及の流れに伴い、'80代後半より各国で同時多発的に盛んになったこの動きも、今では欧米や日本のギャラリーや美術館、あるいは主要なメディア・フェスティバルにおいても盛んに取り上げられるようになりました。それらの作品の表情は個々のアーティストによって実に異なり多岐に渡るものですが、おもには音階のない自然音や電子音などを素材として用い、それぞれの「音」そのものが持つ質感によって構成されています。

その動向の中に大阪在住の稲田光造氏がいます。若干25歳の彼は、すでに各国のフェスティバルから招聘を受けると同時に、それらの動向のイニシアティブをとる数々の老舗CDレーベルからもアルバムを発表しています。彼は、そのコンセプトとあいまった高い構成力と重厚な作風が評価を受け、近い将来重要な仕事を行うであろう作家として注目・期待されています。

では最初に、稲田さんにとって「音楽」とはどういうものですか。

時に文章にも書きますが、僕にとっての音楽とは完全に自分の中で完成されたものがあり、それを表に現すことを示します。基本的に全てを受け手に任せます。その時はできるだけ具体的なものを並べずに、抽象的なものを並べることで聞き手に考えてもらうようにしています。例えると小説に近いと思います。小説で、色は伝えずに“机がある”という文章があるとすれば、読み手は色を自由にイメージします。そういう形で受け取ってもらえればよいと考えています。聞き手が自分と全く同じ状態になるよう試みてもいますが、実際にそのようにはいかないことが多い。例えば、僕が平和というテーマで作りたいとしたとき、平和のシンボルとしての鳩をとりあげ、鳩が羽ばたく音を使ったとします。僕としては平和というテーマがあって、構成として完全に出来上がっているものですが、それを音として聴いたときにそれを受けた聞き手が、果たして平和として受けとるかどうかなどわからない。かといって強制はしないし、気にはしません。仮に、言葉でより具体的に説明することができたとしても、聞き手の感じるイメージを狭めてしまうことになると思うので、そういうことはしないつもりです。

どういう経過で今のアプローチに?

元は音の組み合わせの問題からプログラミングにより音を作る作業を行うようになり、そこですべての表現がプログラムでできることに気づき、そういった技術の変化に対応したことが原因だと思います。また、楽器があり、音の数が決まっており、どのようなメロディをだして、どのように感動させるか、というある程度の決まりごとがあるところではない部分を広げたいという想いはありました。それをもとに作っていくと、あのような音になったという事です。音は使っても使わなくてもいいし、音もどんなものでも使っていいはずだと思うので。

そういったプログラムにいたるまでの経過で、何か問題や壁を感じたことがありましたか。

最初は楽器を使い演奏していました。しかしエフェクターなどを使い変調しても結局楽
器の音からは抜けられないことに壁を感じました。インプロヴィゼーション(即興音楽)においてギターなどで表現をする場合リアルタイムで演奏しなければならないので偶然性という面では大変興味深いものですが、完全なものを作り上げるのは無理だと考えます。僕はもっと計算されて完全にシナリオを書いた上で製作したかったという考えがあります。そういう面でコンピューターなどを使うことによって音楽性も変わってきました。組み合わせについて、以前はサンプラー、リズムマシン、音源やサンプリングCDを使ったり機材に頼っていた部分がありましたが、プログラムを作るようになってからは、すべて波形で捉えるようになりました。全部の音は一つのサイン波に分解でき、一つのサイン波から全て作られることに魅力を感じました。また、自分の内部に完全にあるものをどういった形で表現するかを考えたときに、それを文章や絵に変換することも可能ですが、自分の得意な分野が音を作ることだったので音に変換したという感じです。

ご自身の創造性に、直接何が影響していると思いますか?

一番は経験です。スキルとかの経験ではなくて、小さい頃の印象が今になって出てきていると思います。こういった活動を行うこととなったきっかけを、なかなか言葉でうまく言い表すことができないですが、できる限り具体的に言ったとすれば、今までの生活で築き上げてきたフォーマットが崩されたときがり、次のステップのために記憶をどんどん積み重ねて省略化していった。つまり人間の特性である学習にあたる部分ですが。学習を積み上げて、完全に制覇したと感じていく。しかしそれは奥にある記憶にはタッチしないプロセスです。実際、時間軸に沿って進んでいる中で、深い記憶などは単にメモリー(記憶)として入っているだけで、何も積み上げていない。その部分が創作に影響を与えていると思います。そこを扱う場合、文学で表現する方法もありますし、映像もあります。ただ、音は聴くことはできますけど、音の通り過ぎてどこにも残らない感じに惹かれました。音は視覚的に記録できない。
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