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 残暑厳しい9月某日、待ち合わせの場所、東京 南青山のリトルモア・ギャラリーに竹井氏は噂通りのいでたちで姿をあらわした。短かめのパンチパーマ、刺青紋様のカラフルな長袖シャツに黒いジャージ、足下には履きつぶした雪駄。
 予想していたハズのことなのに、驚かされる。私には、少なくとも大阪では多少見なれた風体だが、ココ、東京の人々には、なかなか馴染まないのではないだろうか?

本当にいつも、その格好でいらっしゃるんですね。電車に乗る時とか、平気ですか?
「ん、高校生の頃から変わってへんしな。自分に一番フィットするから気に入ってるし。好きやねん。もう慣れて、今は人の視線とか分からへんわ。」

少しキツい関西弁も、そのいでたちとの絶妙なバランスのせいか、いかにもナチュラルで良い感じと思えるから不思議だ。

出版社を経営し、編集者として写真集や文芸本を手掛ける竹井さんのルーツは、大阪にあるのでしょうか?
「僕が生まれて育ったのは大阪の西成で、そこに自分のアイデンティティがあるのは、確かやね。誰でも、生まれ育った環境っていうのが、現在のその人を形成してるっていうところはあるやろうけどな。僕にとっては、あそこが原点やし、今でもどこかでそれを引きずってるかなぁ。
 中学校の隣は、暴力団関係の事務所やったし、私服の警察官が通学路に立ってたり。カツアゲとか恐喝とか喧嘩なんて、ホンマに日常茶飯事。朝、小学校の朝礼で校長先生が『えぇ、昨日、生徒の一人が事件を起こしました。』っていうような(笑)。学校の帰りに友だちと人の家に花火を投げ込んだり、電車のレールに細工しようとしたりっていうのが、僕らの普通の遊びやった。特別なことじゃなかったね。イタズラされる方も『こらーっ、あんたら何やってんのー。人の家に火つける気かー!』とか、慣れたもんやった。」
「そういう意味で、特殊な環境やったね。家に、子供の教科書以外、本というものが一冊も無かったし、ほかの家もあんまり変わらへんかったんちゃうかな。子供時代に本を読んで感動したなんてことは、全然なかったね。だから、写真とか絵とか、アートとか、そんなものは、全く無かったな。野球選手になりたかった。」
 
 
スポーツ選手を目指していらした方が、その後、編集者になり、出版社を立ち上げるという流れは、ちょっと珍しいですね。
「高校を卒業して、社会に出た。野球選手になりたかったけど、なれなくて、アルバイトとかしながら、フラフラしてた。何かせんとアカンなぁと思うねんけど、結局、やりたいと思ってることが全部なくなってしもて。だから、もう、あがいて、もがいてたんよ。
 要するに、どう生きよう、何しよう、って。何が一番、自分がしたいのかって。すごく、探してた。」
「それで、二十歳過ぎた頃に、一冊の本に出会った。林竹二氏という教育哲学者が、荒れた学校で実際に自分で教鞭をとって、再生してゆく様が描かれてた。その学校と僕の育った地域環境が似ていたこともあって、いい本やなぁと思ってね。それがキッカケで本に目覚めた。その本に出会ってなかったら、今の僕は無かったな。」
「それからは、とにかくその本を出したところで働きたくて、まっすぐ上京した。だから、その時は、本を作るってことがどういう意味なのか、なんにも分かってないし、右も左もわからへん状態やった。」

林氏に会いに行くとか、地元の出版社に就職するという方向にはならなかったのですね。
「そりゃ、会いたかったけど、それよりも、本を出したかった。林先生以外のものでも、そこから出てる本が好きやったし。だからまず、そこの出版社で働きたかった。編集者になりたいとか思ったことはないし、東京の出版社で働きたいとかっていうことじゃなかった。」

その小さな出版社で一から十までを学び、逆にしがらみの多い不自由さも経験した竹井氏は、28歳で独立。失敗したらまた何か違うことをやればいい、と自分を信じて、好きなことに向かった。「売らんが為の本」ではなく、「自分が出したい本」を出版するべく、株式会社リトル・モアを立ち上げる。
出版する、ということは、どういう事だろうか?

 

 
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