log osaka web magazine index
(b)その理念(『アクションプラン』を参照しつつ)

 行論の途上、既に言及したが、『アクションプラン』においては、この物的条件が、『アーツアポリア事業』の特性からして望ましく、活用すべきものであると明記されている。ではこの事業の特性とは何か。そして、どのような理念を前提に、推進されているのだろうか。

(I)創造型文化事業の定義
 『アクションプラン』では、赤レンガ倉庫につき、次のように述べられる。そこは、「商業性に捕われない新しい文化の芽を育てる環境」(*9)であると。そこで追求されるのは、商業的でない、つまりは非商業的な文化の形成である。けれども、非商業的と、ネガティブに言うのは容易い。実際のところ、商業的でないと言われる当の文化は、では一体、何であるのか。
 『アクションプラン』の後半部では、非商業型でない文化事業に関し、「新しいタイプの文化事業」と明記され、かつよりポジティブに、「創造型文化事業」と述べられる。その具体的な定義は、次のとおりである (*10)。「創造型」文化事業とは、「内容の専門性が高いために理解されにくい」創造的な活動の支援である。それは、「参加型」「鑑賞型」といった、楽しむ行為の担い手を満足させることを前提とする活動、つまりは日常生活の延長上に位置付けられる趣味的活動に奉仕することと、はっきり区別される。そして、こういった理解の困難な、非日常的な創造活動は、「広く一般に「気軽に」利用できることを目的とした施設では」困難であるとされるのである。
 こうして、支援すべきとされるのは創造的な活動であると明記し、かつ、それは他の、日常生活の延長にある「楽しむ行為」の欲求充足とは別のものとされるのである。そして、この創造活動を可能とする具体的な物的環境の必要性を説き、それがやはり、広く公開されることのない、囲まれ隔離された領域にあることを条件とすると説くのである。ただしこれでは、日常生活から切り離された、非日常的な領域で営まれている専門的な創造活動に特化する、限定的な支援事業となりかねない。すなわちそこに関わる者にのみ、「創造の苦しみ」(*11)を強い味わわせる、ただ内向きであるだけの事業となりかねない。

(II)事業の公共性
 『アクションプラン』には、それが、ただ内向きであるのみならぬ、開かれる事業であると、明記されている。ただし、「開かれる」、その意味合いを考えるにあたり、前提として、次のように述べられている。「公共性を正しく保持することが有効な都市経営策でもある」(*12)と。ただし、ここで言われる公共性については、その概念的な意味合いにつき、注意し吟味する必要があるだろう。
「「公共性」とは、「大勢の人が見る・使う」「大勢の人が気軽に参加する」ことではない。人数は公共性の根拠とはなりえない。…(中略)…公共性とは、ある取り組みや催し、活動が本人やそのグループの楽しみをこえて、いかに多くの人の精神活動に影響を与えるかにある。より高い精神活動への影響は、アーティスト、観客の双方にある新しい発想の契機を与える」(*13)、これが、『アクションプラン』における、公共性概念の定義である。
参加している人々が、各々なりに楽しみを得るところ、そこに集まる人の多さは、公共性成立の条件ではない。楽しみの充足を目的とし形成された、多くの人を集める場(いわばイベント成立の場)は、公共的ではない。そこで求められているのは、人々各々が既に有する発想や感性からは逸脱しない限りでの、いわば安心な刺激である。そして、この刺激は、楽しみの欲求を満足させるに足るだけのものであり、それ以上のものではない。つまり、満たされるだけであり、上記で言う、新しい発想の契機とはならない類の刺激である。こういった刺激なら、確かに安心であり、かつ、人の多くを集めるという目的からしても、利用しやすいだろう。けれども、こういった、安心な、平均的な刺激を介した人の集合は、その平均性を土台とするものであり、かつ、そこに形成される集まり以上に広がることはない。イベントの場は、たとえ多くの人により充たされたとしても、その充足的範囲以上に広がることは無く、それゆえ閉塞的である。「ある取り組みや催し、活動が本人やそのグループの楽しみをこえ」はしないのである。
『アクションプラン』では、都市における芸術活動の意義につき、次の見解が示される。「都市に暮らす人、訪れる人の一人一人が、芸術との関係改善を通じて、物の見方や生活様式、行動決定において、より幅広い視野や柔軟な感覚、人間らしい心情を培う」(*14)と。つまりは、芸術との関係において、人は、視野を拡大し、より柔軟な感覚を獲得するというように、より新しくなることが期待されるのである。そのためには、接する芸術活動が、高度に創造的であることもまた、期待されると言えるだろう。「公共性」は、この革新が、絶えざるものであることを、前提とする。だから、創造型事業が求められるのである。ところが創造性は、ある程度の隔離状態を前提とする。この隔離は、大勢の人の気軽な参加において成り立つ娯楽の場、非公共的な集まりからの隔離である。そこを拠点としつつ、新しさの契機となる刺激(それは既にある発想からして、理解困難で、馴染みにくく、さらに安心させない、不安をかきたてる刺激であるかもしれない)を発生させるのに、隔離が要求されるのである。
公共的な領域は、プライベートな日常生活の延長上になく、両者が互いに区別されたところ、いわば非日常なところに形成されるのである。そして、創造的な刺激が生じ得るのはそこにおいてである。
ただ、この区別は、創造の前提の一つに過ぎない。『アクションプラン』には、こういった非日常的な場を形成するだけでなく、その場が下記のごときネットワークに連なり、そこへと開かれていることが必要性であると、説かれている。すなわち、「あるレベルの人的資源ネットワークを大阪市の中に内蔵すべきである。そのネットワークが国内外の現代美術事業とリンクすることにより、大阪市自身の現代美術界における価値評価がなされ、市内にかぎらず国内外より豊富な人的資源が、大阪市との関係を持つことを望むことになる」(*15)と。むろんここで言う価値評価は、美術に限らず、音楽やダンスといった分野においても望まれるだろうし、それに応じたネットワークの形成も望まれるだろう。市内に内蔵されるべき、これら様々なネットワークは、そこにて閉塞する類のものとは異なり、国内外に形成される人的ネットワークの一部を担い、独自な拠点となる類のもののことを言う。一方では、非日常的な領域内で、その局地的な独自性を、「あるレベルで」維持しかつ醸成することが志向され、さらに他方では、美術、音楽、ダンスといった分野毎、国内外にまたがり形成されるネットワークに組み込まれ、その一部分を担うことが、志向されるのである。日常との非連続(断絶)、および非日常における連続(連鎖)が、刺激的な創造の領域、つまりはここで言われる公共的な領域で可能となるとされるのである。ただ、この領域での活動と、日常的な生活領域と、どう関係するのか、ということについては即断すべきではないだろう。今はただ、これら二つの領域は異なるとのみ述べるにとどめる。

[ 3/6 ]