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Part5

就職して、家は手に入ったんですか?


就職して最初に住まわせてもらった家は文京区白山のインキ工場だった木造2階建で、取り壊しが決まったら即日、次の物件へ移動するという条件でした。京都で住んでいた借家では出来なかったことを最初は喜んでやってました。壁をぶち抜いたり、畳をはがしてチェーンソウで2階の床に穴を開けて1階と滑り台みたいなものでつないだり。当時は家がそのまま彫刻になるようなイメージで、空間の作品を作りたいなあと考えていました。
ところが、これは今も変わらないけど、いつも考え方とか手法とかがシンクロする作家がいるんです。お互いに知ってる場合もあるし、全然知らない場合もある。その時はPHスタジオでした。彼らも取り壊される家を使って、家の中心部を切り取って、真っ二つにして作品化していましたし、写真家の安斎重男さんと彫刻家の田窪恭治さんらが家の壁を取り払って柱だけにして、床の上に強化ガラスを敷いてかなりお金をかけて作品化したりしていました。
時代的にはバブル全盛のころで、不動産屋がスポンサーになってアートにお金を出したりしてバブリーなイベントがたくさんあったみたいです。
当時、会社の上司がそういうのに興味を持って、いろいろ見ている女性で、「藤君はあんなことをやりたいのか?」ってぶつかってきたんですよ。彼女が言うには「土地開発の仕事っていうのは、絶対に住人とか近隣の人に嫌な思いをさせてはならないナイーブな仕事なんだ」と。「現代美術家の行っている空き家を使った作品は家を裸にしているようで、見ていて辛いし、もと住んでいた人や近所の人にとってみれば痛みでしかないだろう。」って。
僕も実際に家を切り刻んでいる時に、押し入れの奥から靴下がポロッと出てきたり、柱に子どものシールが残っていたり、人間くささというか生活臭みたいなものが残っていて、痛みのようなものは感じていたけど、おもしろさのほうが先にたって実は見えていなかった大事な事だったんですね。
僕が暮らしていた文京区の開発エリアは1000坪くらいの土地に45件ほどの木造住宅が密集していた所で、うちの会社が土地を買い取ってどんどん空き地にしていて、最後に一軒だけぽつんときれいに残っている3階建ての木造の家があって。「ここで何かしよう!」って目を付けていたんだけど、この話を聞いてから、何も出来なくなってしまって。せっかく家を手に入れたのにね。サラリーマンをしていたので、時間的にも厳しかったというのもあったかもしれないけど。
それで、ニューギニアでは5匹しか作れなかったヤセ犬、・・・当初101匹つくろうと考えていたのを思い出して、取り壊される前の木造住宅の柱(まだ立っている柱)からヤセ犬を彫り出すことにして、結局5カ所の家を転々としたので、それぞれの大黒柱から、5匹のヤセ犬が誕生しました。

E-space

鹿児島でカフェをはじめたのもこのころですよね?


結局、東京では家を使った空間の作品をつくりたいという思いが実現しなかったんだけど、ちょうどその頃、鹿児島で貸家にしていた築35年のコンクリート2階建住宅の実家が古くなり、借りる人がいなくて困っていたんです。他人の家の記憶だと扱えなかったけど、自分の生まれ育った家の記憶だとそのまま使って表現に出来るんじゃないかと、親や兄弟に声をかけてね。
ちょうど、パブリックアートに関する研究会やシンポジウムがだんだん増えてきた時期でもあって、研究会に参加する度に違和感を持っていた頃で、パブリックアートを公共の空間に設置されるアート作品と捉えるのではなくて、だれもが使えるパブリックに開かれた表現空間もパブリックアートと捉える事ができるんじゃないかと思い付いたんです。だとするとカフェ空間も表現空間にしてしまえばパブリックアートとなるのではないかと。どうせ鹿児島という地域で空間だけではお金を生み出さないので、運営していくためにカフェの顔が必要だったんですけどね。今では、当たり前のような話なんだけどね、その当時は極端な話だねって言われました。それで、親を説得して、土日を利用して東京から鹿児島へ通って、半年かけてその家を改装しました。東京で働くようになって僕自身が親兄弟とのつながりが薄くなっていて、このままだと会話も成り立たなくなるだろうなあと感じていたので、いっしょに空間をつくったり、カフェを運営するというのはいいことだなとも思って。Express(表現する) Earth(テーブルが世界地図になっていてたんです)のEを取ってE-spaceっていう名前のカフェを89年にオープンさせました。もちろんいい空間という駄洒落ですけどね。最初は結構経営苦しかったけど結局7年と半年の間営業を続けて、毎日平均100人近くはお客さんが来るようになっていました。この前計算してみると、7年間で延べ人数だと20万人以上の客が利用した計算になる(100人×355日×7.5年=26万だからね)。凄い事だよね。実際は感覚的には3000人ぐらいの客に気に入って利用してもらったんじゃないかと思うけどね。

バブルの崩壊
そうこうしている内に、バブルが崩壊し始めて、会社の社長は突然「ビックバン作戦を展開する。皆爆発しろ」と訳の分からない事を言いはじめて。結局、給料は出さないので皆独立して自分で稼げという話になって。150人ほどの社員がいたんだけど、30くらいの会社が出来ていったかな。それで会社がどんどん縮小されていって、給料もずーっと出ないまま、最後の15人くらいになるまで会社にいたんだけど、ほんとにもう潰れるかなって時、新しく都市計画系の企画事務所を作るという人に引っぱられて、建築企画と都市計画のコンサルタントの事務所を5人で設立することに。

世界食糧銀行構想

あたらしく作った会社はまともで真面目な小さな事務所だったんですけど、元勤めていたつぶれそうになっていた会社がその後も常識では考えられない仕事をしていてね。そこから入ってくる仕事が怪しくて大変なものばかり。ややこしい話になるけど、アフリカの緑化計画のための植林事業だとか、ザンビアにそのセンターをつくる構想だとか。アフリカでのテラピアの養殖事業に出資したりだとか。サハラ砂漠に四国ぐらいの海水湖をつくろうと研究者や大手建設会社とプロジェクトチームを組んで調査を行ったり、2000年までに飢餓をなくすためのプログラムとかも、もちろん東京の高層ビルの計画もずっと続いていた。実際にプロジェクトをおこしたり。多額のお金を注ぎ込んでいろいろなことをやっていて。会社にとってどう利益になるかはわからないけど対外的にはすごい会社だったかもね。事務所に突然カーター元大統領やゴルバチョフ書記長が来てパーティやったりしてたからね。
その会社とべったりだった関係で社長が飢餓をなくすための署名と募金運動というのをやっていてね、僕は署名と募金では何も変わらないって反対してたんだけど、でも社長は署名と募金から始めなければ何も変わらないってずっと対立。署名すればいいじゃんって周りからは言われたけどどうしてもできなくてね。4年間そこで働くんだけど、前の会社や新しい会社の社長と意見が合わない部分がどうしてもあって、それが蓄積されてストレスになっていく時期でしたね。
僕は青年海外協力隊でパプアニューギニアに行ってた関係で、協力隊の友だちがアフリカの現場にいて、現地の状況とか聞いていたし、会社が表向きに見せている美しい支援活動と実体のギャップが大きすぎて会社での仕事そのものが理解できなくなって。現場はそんな美しい話では全くないんです。仕事はおもしろかったんだけど、やっぱり感覚の溝が大きかったのかな。
それで仕事でやっていることを、個人的に等身大で理解しようと僕なりに勉強して、食糧問題に対して出した答えが食糧銀行。無償で与えるとか援助するだけでは、何も生み出さないのではないかと考えて、食糧を無利子で貸して、働く責任感、働く現場を作るシステムを考えてみたんです。例えば食糧銀行が、日本の宅急便レベルでたくさん窓口ができて、どこにいってもお米が借りれるようなシステムが必要ではないかと。現実はいくら食糧を送っても、どこかでお金に換金されてお金持ちに流れていってしまい、結局、足りないところにはいつまでたっても届かない。そのシステムをどうにかできないものかと。そうやって考えてゆくうちに輸送と保存が食糧問題のネックだということが見えてきて。

[BANK OF FOODS・世界食糧銀行構想]
展覧会/原美術館コレクション展
期間/1989年8月12日-10月15日
展示場所/ハラミュージアムアーク、群馬
サイズ/10m×10m内に木材と米と芝とドローイングによるインスタレーション
素材/木材、芝生、土、ドローイング、スピーカー etc.
備考/2週間の公開制作を行ない食糧銀行というものについて考える計画案をインスタレーションする。展覧会の最終日に、10kgのお米を抱えて来た人に対してこの展示の報告書と交換するというイベントを企画。約10名の観客が関東周辺のあちこちから10kgづつお米を抱えてきてくれる。これ以降お米とのつきあいが始まる。

ハラミュージアムアークで2週間滞在して何かしてくれっていうオファーがあったので、会社を休んで、世界食糧銀行のためのイメージを作ってみようと公開制作を行いました。会期中、会場には展示の最終日にお米を10kg持ってきてくれた人に展覧会の報告書を差し上げますっていう貼り紙をしてたんです。輸送と保存の疑似体験を自分でもしてみようと。東京から100km離れた美術館まで再度足を運び、さらにお米10kg抱えてくる人なんていないだろうなあと思ってたら、20人くらいお米を持って来てくれて感動しましたね。根拠なくがんばろうと思いましたね。そのイベントで合計200kgのお米を手に入れることに。それを持って帰って食べ続けてたんだけど、実際は運ぶのも保存するのも大変でね。食べるには困らなかったんだけど、でも、飢餓をなくすにはこんな量ではないのになあってへんな気分でした。


そんな調子で会社のやることには、「現場はそうじゃないんだ」っていちいち文句を言い、募金と署名は断り続け、会社の中が居心地わるくなっていって。その一方で「私達の会社はこんなことをしてます」っていう美しい企画書やプレゼンテーションの資料、広報物を作るのも僕の仕事だったんで、とてもつらくてね。だんだんストレスがたまっていって、91年に正社員を辞めることにしたんです。でもまだ仕事が残っていたので、契約社員として1年ほどは働いてたんですけど。


この時に1カ月分の給料でお米を買っちゃうんですね。

そうです。会社への反抗心で1カ月分の給料30万円すべてを使って、お米を1トン(10kg3000円)買いました。今考えるとズレていてばかみたいだけど、その時本人はいたってまじめなんだよね。必死で社長に反発して。「食糧問題に対して自分が出来る最大の行為だ」と信じてね。実は水戸芸術館での展覧会がきっかけだったんだけど、そこで、会社への不平不満をぶちまけた作品を作りました。1トンのお米を床に敷き詰めてお米の砂漠の風景を作って、その真ん中にはテラピアの缶詰めがピラミッド状に積み上がっていたり、塩の湖があったり、48本のメタセコイアの模型があったり、そのあちこちでおしっこしている犬の彫刻があったりね。元社員だった会社の社長に見せるために作ったようなもんです。壁には一応説明をしていたんだけど、きっと他の人が見てもよく分からない作品だったと思うよ。

[犬のオシッコ]
展覧会/箱の世界
期間/1991年2月9日-3月24日
展示場所/水戸芸術館、茨城
サイズ/15m×15m内にインスタレーション
素材/塩、米、テラピアカンヅメ、白セメント、木材、 etc.
備考/給料一カ月分のお米を敷き詰め、お米の砂漠を制作。お米の砂漠の上には勤めていた会社が行っていた様々な国際協力活動、開発計画に対する個人的な社長に対する意見をオブジェとしてちりばめている。お米の上を歩く為、観客から非難の嵐。それに対して水戸芸術館のスタッフは丁寧に親切に対応してくれた。ありがとう。


社長さんは見に来たんですか?

結局、来なかったので、その後に、その会社から借りて作業場にしていた不良債権で動かなくなった3階建ての空きビルの2階の20坪ほどのスペースにお米の砂漠とテラピアの缶詰めのインスタレーション作品を展示していました。その場所は無人だったのですが、銀座の“ギャラリーなつか”というところでも一部展示をして、そこで、興味のある人だけにその展示会場の鍵と地図と電気のつけ方等を説明した「使用マニュアル書」を貸し出して、24時間いつでも好きな時に好きなだけお米の砂漠を体験してもらうという空間にしていたんです。それを「プライベートアートオーナーシステム」って呼んでいました。2カ月くらいたってからかな、ある日会場に行ってみると、いたずらされていて悲しかったですね。ピラミッド状に積上げていた缶詰めが倒され、音響機器や壁にスプレーで落書きがされていて、とても不幸な終わり方をしました。

そして片付けて、またお米をまとめて持って帰って、1トンのお米を日々食べ続ける生活に。1年くらいは大丈夫だったんだけど、とうとう虫が湧いてきて、念入りに洗って虫を取り除きながら炊くんだけど、炊きあがってみると虫が浮いていて。もう限界だなあって。でもお米はまだ大量に残っていて、どうしようって途方に暮れるんです。

つづく
Long Interview vol.02 藤浩志 archive
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雨森信