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Part2

その時、「埴輪と亀」が見えてきた。

「カメハニワの棲む島」  
1985/TAMAVIVANT'85出品作品/東京都八王子市多摩美術大学展示ホール

役所の人に鯉のぼりのプランを話しながら、なかなか通じてもらえない時にハニワのイメージが浮かんできたんだす。いくら話をしようとしても相手に通じない。聞いてもくれない。表面だけ立派に見えて空洞のキャラクターね。結局立場でしか話をしないのね。「あなた個人はどう思います?」って聞いても個人を見せない。「あなたの本心を聞きたい!」ってお願いしても絶対に立場での話しか返ってこない。個人の意見を言う立場にいないからしょうがないのだけど。その一連の体験からその後の作品の「カメハニワ」が産まれます。カメがハニワをかぶっているキャラクターで、それは二つの生命を象徴している。カメは生物としてのいわゆる生命で、ハニワは社会の中での生命、つまり社会的立場とか肩書きとか権威とか、例えば名刺の名前の前に記載されているものと捉えていました。カメは成長しないけど、ハニワだけが社会人になると成長して頭でっかちになってゆくみたいなイメージね。バランスが悪いんだよなーって。僕自身もその時は京都市立芸術大学の大学院生であるというハニワをかぶっていた。小さなハニワだったけど、それ自体にも疑問を感じるようになって。今はこれを生活の「生きる」と「活きる」の違いかなと捉えています。コイノボリ以降、美術の持つ権威自体がうっとうしくなってね。そこを崩そうとこだわってましたね。僕の中ではアーティスト像とか既存のアートのイメージとかは捨てちゃったから。とにかく自分がおもしろいことしようと。何かをやったらおもしろい効果が出てくると信じてましたね。

京都情報社を立ち上げたのはどういうきっかけなんですか?

劇団座・カルマでの活動を通して、非日常の閉鎖空間での舞台を操ることは自分でも面白いくらい出来るようになり(と言っても機材はちゃっちいもので、しょーもないものやったけど)、でも一歩外へ出るとギャップがあって、社会はやっぱり厳しいというか(笑)。日常である社会空間では無力だなと感じるようになったんです。そこで何か出来ないかと考えて、学部を卒業する時に劇団を引退して、京都情報社というパフォーマンスユニットを立ち上げたんです。(コイノボリを作ってた頃に)。大学院に入って中島隆章君という強烈な芸人がバレー部に新入生で入ってきて、何か面白い事しようよってことになってね。その頃のバレー部員を結構巻き込んでね。
当時いろんな人といろんなことをやってたから、ほとんど寝る暇もなく、いつも家には大勢人がいて、何かやってましたね。

コイノボリ事件以降、雑誌に載ったりして内輪で有名になって、仕事の話や、展覧会の出品依頼も来るようになって、そう言えば、NHKの『先輩の青春』という30分の特集番組にもなったりした。万博の太陽の塔のまえにわざわざ撮影に行って(僕が太陽の塔が好きやったからなんだけど)、高校時代の先生を鹿児島から呼んできて、偶然再会したような演出で話をする場面とか、大学までNHKの撮影隊がやってきて、学内でいろいろ撮影したり。
それで「また藤さん何やってんのやろう?」って思われてた(笑)。

有名人ですね!今でも埴輪(卒業制作の作品の一部)が芸大の丸池にありますしね(笑)。

…でもね、派手にやってるように見えるけど、もう一方ではいろいろ地道な努力もしてたんですよ。工芸作品の質を別の視点で暴こうと現代工芸展や新匠工芸展等の出品作品のカタログ用撮影助手なんかも5年間程やってましたし、明治時代の日本画京都画壇の展覧会の学芸員もどきの仕事もしていました。その頃お茶の世界に興味を持って、下宿の2階の部屋の畳をカッターで切り、炉を作ってお茶室にして、2週間に1回のペースで「軽茶倶楽部」(かるちゃくらぶ。当時カルチャークラブが流行っていた)というのも開催していた。いわゆるイメージの重たい茶道を軽いものにしようとね。コイノボリの事件では学校に迷惑をかけたのもあって、事務局の人達がコイノボリを欲しいというので、オーダーメードで染めて販売したり(すごい安価でね)。でも、基本的に大学側とは戦っていましたね。新しく大学が移転したばかりで、前例がないとかですべてにわたって規制が厳しかったので、既成事実を無理矢理つくったり(笑)。学食もイベントで使えなかったんだけど、ライブができるようにしたり、野外ステージも。また学園祭とかの学内の飾り付けで、当時、大学の入り口の植栽の部分に作品を設置したらだめって言われて。入り口はきれいにしとかなければいけないから、汚いものは置いたらだめってね。で、「作品のどこが汚いんや!」って抗議して。交渉中に事務局を取り囲むように、廊下とかにマネキネコ70匹に松を持たせて並べ、事務所の窓から見えるあたりにも事務局の方を向けて設置して、無言のデモ行進のようにね。
水道代のことでも怒られましたね。ひと夏、染織棟だけで数十万円。夏休み使ってたのは僕だけやったから。「授業料何年か分元とりましたね。」って言ってあきれられました。学費は元を取らなきゃと思ってましたからね。

そう言えば、当時の漫才ブームの影響で、社会現象的にパフォーマンスが流行っていたかな。 でも特にパフォーマンスをしようと思っていたわけではなく、街に影響を与えるというか街の中の風景に何かしかけることによって動き、変化が起きるということに興味があって。でも設置したらめんどうなことになる(コイノボリで学習したことやけど)から、移動可能なことを考えたら、パフォーマンスにいきついたということかな。
ちょうど京都情報社で立体を作ろうということになって、メンバーの吉川哲朗君と藤田英之君が「昔からゴジラのキグルミを作りたかった」ということでゴジラをつくることに。家の2階がゴジラ製作所になって夜な夜な作ってたんです。作ってたのは彼等ですよ。だから凄くいいものができた。彼等にはゴジラに対する愛があったからね。僕はゴジラの事何も知らないので、映画見に行ったりした。材料拾ってきたり雑用手伝ったりしてね。

それで街をウロウロするパフォーマンスをすることに。

1年生の頃から、古本屋で古い美術手帖を見つけては買ってまして。創刊号から70年代前半ぐらいまで集めてた。もちろん古本やから安かったしね。当時の新刊の美術手帖は高くて買えなかったし、面白いと思わなくてね。昔の美術雑誌の方がハプニング特集とかパフォーマンス特集とかいろいろあって、その熱気がおもしろいなあと。それが原因かどうか分からないけど屋外でパフォーマンスというのも僕にとっては特別なことだとは思ってなかったしね。

「悩みのゴジラくん」1984-1985

ゴジラ制作/京都情報社(吉川哲郎/藤田英之)
ウレタン、テラックス、他

実は、鯉のぼりがセンセーショナルだったので、ゴジラもまた一波瀾あるのではとドキドキしていたんだけど、期待していたようなことは何もおこらなかったんですよ。パチンコ屋に入っても喜ばれるし、商店街を歩いたら子供が寄ってくる。東京にも行ったんですけど、赤坂の町を散歩してみたら、リアクションなし。完全に無視される。マクドナルド入っていったら、普通に「いらっしゃいませ、何にいたしましょう」って冷静に対応されましたね。(アルバイトの女の子は、驚いて、どうしようってなってたんやけど、後ろから店長が出てきてね)さすが東京やなあと思いました。僕がゴジラのキグルミを着て、他の学生もいっしょにぞろぞろ後ろを歩いてみたり。当時東京芸大生だった宮島達男もその時いっしょに歩いてました。
これはフジヤマゲイシャ(京都芸術大学と東京芸術大学による交流展覧会)の展覧会の一部ですね。展覧会中は、会場でゴジラと金の鯉が向かい合ってる。スピーカーがそれぞれ仕込まれていてゴジラの方からは悩みの音楽(演劇で使う効果音集の中から選んだもの)鯉からは楽しい音楽が流れている。
ゴジラはたまたま散歩しているだけなんだけど、体とエネルギーがとにかく大きすぎるんです。だから家とかビルとか踏み潰してしまう。僕自身も何かしたいというエネルギーがありあまっていたという感があったから、自分自身とゴジラを重ね合わせていたのかな。出会いとか関係がキーワードだったかな。「関係って何?」とか「幸せな関係とは?」とかね。とにかく自分のエネルギーをうまく消費してくれる出来事と出会いたかったんやろね。

「悩みのゴジラ立像」  
「悩みの無い鯉頭像」  
「また再び無意味な対決」  
1984/フジヤマゲイシャ出品作品/東京芸術大学展示室
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