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古典芸能を学ぼう
<けったいな縁>で大阪に居ついてしまった<ぶち>が、心に映ったつれづれを独り言。
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+ 石淵文榮

『道成寺』、あれやこれや その1

 冬の京都で観た『道成寺』の数日後、そのシテを勤めた味方玄と会った。
 彼がその場所に入ってきた瞬間の印象を、たまたま同席していた芸人さん(女性)がこう言った。
 「なんか、ごっつ男前あがったなあ!オーラがちがうで」
 大きな舞台を演じ遂せた役者の輝きだろうか、『道成寺』なればこそだ。
 それほど、『道成寺』とは、特別な演目なのである。

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 能『道成寺』
 ここは紀ノ国、道成寺。
 久しく退転していた鐘が再興され、吉日の今日、いよいよ鐘楼に吊って供養の法会が営まれることになりました。
 住僧は、能力を呼んで、供養の場へは堅く女人禁制であると触れさせます。
 一方、この国の傍らに住む白拍子の女が、道成寺を目指して道を急いでおりました。
 寺についた女が鐘をちょっと拝ませてもらいたいと頼みます。
 すると、初めは拒んだ能力も、その美しさに魅入られたのでしょうか、舞を見たさに禁制のはずのを供養の場へ女を入れてしまいます。
 烏帽子をつけた女は、しばし鐘を見つめ、するすると鐘楼に近づいて舞い始めます。
  〔乱拍子〕
 地の底から湧きあがってくる咆哮のような小鼓の掛け声。シテがたどる▲(鱗)の軌跡。集中してゆくエネルギー。それは、遥かな過去へと時空を結び、忘れられた記憶を呼び醒ます。長い…長い間合い、繰り返される静寂と緊張、そして、道成寺の縁起を語る途切れ途切れの言葉。時折、笛が彩り、わずかにおこった空気の対流は、その高まりとともに、やがて激しい奔流の舞となる。
  〔急之舞〕
 入相の鐘に桜はとめどなく散りかかり、宵闇の中、女は皆が寝静まったのを見定めると、あっという間に鐘を引き担いでその中に消えたのです。
  〈中入(鐘入リ)〉
 凄まじい轟音に驚いた能力たちが来てみると、なんと、吊ったばかりの鐘が落ちているではありませんか。
 しかも、鐘は溶岩のように煮えたぎっていました。
 住僧は、能力の報告を受けると、鐘にまつわる恐ろしい因縁を話しはじめました。
  〔語リ〕
 昔、真砂(まなご)の荘司という者が、幼い娘を可愛がるあまり、熊野詣での山伏のことを未来の夫だと戯れを言っていた。それを一途に信じて大きくなった娘はある時、山伏に「一緒に連れて行って」と迫った。驚いた山伏は、夜に紛れて逃げ出し、この寺でかくまってもらい、鐘を下ろして中に隠れた。後を追った娘は、折から増水していた日高川に阻まれつつも、ついに一念の毒蛇となって泳ぎ渡り、道成寺にたどり着くと、鐘が落ちているのを怪しんで七纏い巻きつくや鐘もろとも山伏を溶かしてしまった。
 僧たちが護摩を焚いて祈ると、大音響とともに鐘が上がり、凄まじい形相の蛇体が現れます。
 そうして、激しい闘いの末、蛇体はついに祈り伏せられ、自らが吐く焔に身を焼きつつ日高川の深淵に飛び入り沈んでいったのでした。

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 味方玄にとって2度目の『道成寺』は<赤頭(あかがしら)>の小書(=特殊演出)だった。
 常の演出から変わるところは数ヶ所あるが、一番の特徴は、もちろん後シテが赤い頭をつけることで、それにつれて面も色の白い般若ではなく赤味がかった般若になる。
 鐘があがると、観世流では、蛇体は鐘にすがりつくように両手をあげるのが普通の演出だが、
<赤頭>の小書きになると、シテは白い衣を被いで伏せたままの状態で現れる。
 それが、白い蛇がとぐろを巻いている態を表わすのだとも言い、その真っ白な下から、やがて頭と長袴の赤が現れるという視覚的効果を狙ってもいる。
 私が今まで観たその演出は、白の下から赤が現れるという面白さはあったけれど、白い蛇がとぐろを巻いているようなということに関しては、「そう思って見るからそう見える」ぐらいで、そりたてて、そこが素晴らしいと思ったことはなかった。
 その白い塊は、今まで私が見たどの『道成寺』でも見たことのないものだった。
 わだかまっている白い塊の美しさが胸に染みて、できるなら、ずっと見ていたいと思った。
 かすかに光沢のある菱模様の地紋が蛇の鱗を思わせ、ぼおぅっと白い光をまとっているように見える。

 その白い塊には、清らかさと妖しさが混在し、その<かたち>は、「人が伏せている」というのではなく、白い蛇がわだかまっているイメージと女の艶かしい姿態のイメージが交錯する不思議な物体であった。
 そこに、凄まじい怨念の赤が秘められていることなど想像できなかった。
 少し大人びて意志的な顔立ちをした小面を使った前シテも妖しい魅力を放っていたし、後シテも、蛇体となった獣性の中に女の激しさと哀しさが滲み出ていたが、なによりもどれよりも鐘があがった瞬間の美しさに、すべてが集約されていたようだった。

 9月に観た名手友枝昭世の『道成寺』は、逆に獣性に近づいていた。
 前シテからしてすでに、中身は蛇体っていうのがチロチロ見えているようで、喜多流という流儀が本来持っている民俗的な野趣と友枝昭世の端正や洗練がせめぎ合い、絶妙なバランスを見せていた。
 その面白さは、観世流の同年代の、例えば梅若六郎の見せてくれる圧倒的な面白さや、大槻文藏の知性が見せる面白さとも別種のものだった。

 友枝昭世が、来年、『伯母捨』を上演するという。
 喜多流では長らく上演されていないものを先年、粟谷菊生が工夫して上演した。
 その粟谷菊生が地頭である。
 喜多流の野趣に回帰する友枝昭世は、どんな『伯母捨』を見せてくれるのだろう。
 <一期初心(いちごしょしん)>(註1)の道をゆく人は、本当に美しい。
 その脱皮する瞬間を目のあたりにできるのは、至上の歓びである。
 
 さて、次回も引きつづき『道成寺』。

(註1) 一期初心(いちごしょしん)…生涯、たゆまず芸の高みを追求し続ける、能役者のあるべき姿を世阿弥が表した言葉。その時々の初心を忘れなければ、終生、芸は衰えないという。

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