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市電から地下鉄へ

 戦後の復興期が終わり、昭和三十年代に入ると、半世紀にわたって市民の交通手段として親しまれてきた市電に転機が訪れる。自動車の急激な増加でしだいに市内の交通渋滞が目立つようになり、その原因の一端が市電にあるとされた。近年は都市交通における路面電車の有効性が世界的に再評価されているが、当時の世相はモータリゼーション化を反映して、市電廃止論が起ころうとしていた。その上、競争相手も増えた。大正時代の末から運行を開始した民営バス、昭和二年(一九二七)から営業開始の市バス、さらに昭和八年(一九三三)に開通した地下鉄との競合で、市電の乗客は昭和十八年(一九四三)の百四十三万人をピークに下降線をたどる。そうして市電の全面廃止が市会で決議されたのは昭和四十一年(一九六六)三月のことだった。
 辰巳さんは子どものころに市電を見て電車が好きになった。それが交通局勤務時代に、地下鉄への切り替えの時期と重なり、自ら市電の幕引きを行うことに。
「昭和三十五年に地下鉄工事のため、大阪港から港車庫前までの市電の運転を休止し、代行バスを走らせたのが、市電の全面廃止へのきっかけでした。いま地下鉄の高架が立っているところに市電のレールがあったんです。あのころから市電が道路交通を邪魔していると言われだしましたが、環境や省エネに関心が高い今の時代ならどうなのでしょうか。当時、市電の関係者は、なんでこんなええ乗り物をなくすんやという気持ちでいっぱいでしたよ」
 それでも時代の流れは止まらなかった。昭和四十年(一九六五)には四つ橋線西梅田〜大国町間に地下鉄が開通。都市計画決定から工事、竣工までがわずか一年半という短期間だったが、こんな超スピードで開業にこぎつけた地下鉄は世界にも例がないという。
「あのころは地下鉄御堂筋線が利用者増加で、あと数年でどうにもならん状態になるので、バイパスを通さなあかんと緊急に立案されたんです。工事期間の短縮には、市内交通が市営のもとに一元化されていたことがおおいに役立ちました。市電の運転をやめてしまって、そのレールがあったところに工事基地を設けて、その下をどんどん掘り進むことができたからです」
 今の四つ橋線が通っているところは、もともと市電の南北線が走っていた。その後も次々と切り替えは進んだ。
「昭和四十一年の市電廃止決定から二年間で地下鉄への全面切り替えをしたころは、まさに戦争のような状態で、感慨に浸っている暇もありませんでした。私は不要になった電車を鹿児島、熊本、広島、長崎、岡山など、路面電車を走らせている街に売りに行く仕事もやりました。広島では今でもその時の電車が、動く博物館やというて、まだ走っています」
 昭和四十四年に開通した地下鉄中央線の堺筋本町〜本町間の工事には、こんなエピソードも残っている。
「中央大通の丼池という一等地を潰して地下鉄を通すわけやから、地元で商売をやっていた人たちからすごい反対がありました。一方で、万国博覧会の開催までに通したいという市の事情があり、地元にも大阪市の発展のためにも協力したいという声はあって、商店会長も何かいい知恵がないかと悩みました。そこへ小林茂喜さんというアイデアマンが、高架の下をビルにして商売を続ければいいと発案した。商店会長が喜んでそのスケッチを持って地元を説得した。それが今の船場センタービルです。都市計画道路の真ん中にビルを作るという発想は当時の日本にはなく、小林さんのひと言が窮地を救ったんです」

昭和28年の難波駅前停留場。
昭和30年代の日本橋筋1丁目停留場。
たくさんの発着場が交錯する、JR天王寺駅前の阿倍野橋停留場。。
梅田新道停留場。停留場は安全地帯として軌道の脇に設けられていた。幅約一m。ラッシュ時には、狭い安全地帯に溢れんばかり人が群がった。
高度経済成長期を迎え自動車が急増し、市電は立ち往生。たび重なる交通マヒに、人々の不満は市電存廃論へと発展していく。
市電最後の日は名残を惜しむ人で超満員に。最終電車は各駅で待ち受ける人々に囲まれ、盛大な見送りを受けた。
地下鉄工事には多くの障害が待ち受けていた。市庁舎周辺は堂島川、土佐堀川の川底を潜らなければならず、難渋を極めた。
昭和30年代中ごろ、市電は市民の交通手段の座を、地下鉄、市バスにバトンタッチしようとしていた。西区本田3番丁付近。
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