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探るほどに面白い、知るほど謎が深まる“大阪”という都市を楽しむ。
vol.15 市電・地下鉄(第1回)
(月刊「大阪人」2003年6月号より)

市電が路面を走って一世紀。
地下鉄は歴史を刻んで七十年。
市電の夢と地下鉄の力が、ダイヤモンド・クロッシング——。

「大阪市電・地下鉄」レールに刻んだ歴史
走るランドマークの百年。

電車は都市の顔、走り続けるランドマーク。
明治三十六年の市電開通から、地下鉄の時代までを駆け抜けた電車の百年物語。

※写真はいずれも大阪市交通局提供。

市電1号車
明治36年9月12日の開業日に走った1号車は、定員42人の四輪単車。床板はツガ、屋根は米松、他はすべてケヤキづくり。台車、モーターともドイツ製。
市電1081型
大正11年から製造された木造の大型低床ボギー車。屋根にはてんとう虫に似たベンチレーターを載せていた。昭和30年ごろまで活躍した。
市電1601型
大阪市電最初の鋼鉄車。昭和3年から翌年にかけて100両が製造された。乗り心地も良く、戦前を代表する車両として親しまれた。
市電801型
昭和7年に登場。車体の両端を絞った感じが水雷艇に似ていたので、「水雷型」と呼ばれた。出入り口は前と中央の2カ所で、左右非対称。
市電3001型
昭和31年から50両が登場した、大阪市電最後の新造車。高性能を誇り、市電の最高傑作と評される。堺筋など、市内のメインストリートを走った。

市電開通、街の名物に

 明治三十六年(一九〇三)九月十二日、花園橋〜築港桟橋間五キロをつないで市電が開通した。電車が初めて日本で走ったのは明治二十三年(一八九〇)に東京・上野公園で開かれた第三回内国勧業博覧会の会場だった。交通機関としては、明治二十八年(一八九五)に京都〜伏見間で初登場した。しかし、これは民営であって、大都市そのものが経営する文字どおりの市電は大阪が最初である。当時の主な交通機関は、人力車と巡航船。近代都市のランドマークともいうべき電車の出現は耳目を奪い、その後、街を網の目のように結んで、人々の貴重な交通手段となった。
 第一期線と呼ばれる最初の路線の終点が築港であったのは、大型船の発着が可能な大桟橋が完成して、市の中心部への乗客輸送が必要になったことによる。起点が花園橋になったのは、ここが当時の主要道路との交点であったことと、すぐ近くに前述の巡航船の発着場があったことによるものらしい。
 開通当初は定員四十二名の木造車が、花園橋・築港両ターミナルから三十分ごとに発車。停留場は全部で十カ所。軌道は単線で、途中に待避線を設けてすれ違い、所要時間は片道二十六分。平均時速は一一キロでの走行だった。翌年には、後に草分け時代の大阪市電のシンボルとなる二階付き電車が登場。納涼電車、魚釣り電車と呼ばれ、大阪の新名物として親しまれた。
 市電第二期線は明治四十一年(一九〇八)開通、四ツ橋を中心とする南北線、東西線の二路線からなっていた。南北線は大阪駅と難波、恵美須町を結び、東西線は末吉橋から松島、本田を経て九条中通で第一期線と接続した。以後、第三期線は明治四十二年(一九〇九)から大正五年(一九一六)にかけて堺筋線、上本町線、靱本町線、九条高津線など次々と路線が増え、街を縦横につなぐ路線網ができていく。市電は高収益の事業になり、道路整備や架橋に必要な巨額の費用を賄った。水運が発達していた反面、道路事情が必ずしも良くなかった大阪で、当時、電車道といえば整備された目抜き通りの意味だった。

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