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vol.21 大阪キモノ風俗史

大阪キモノ風俗史
〜華美に走らず、野暮に沈まず〜
(月刊「大阪人」2003年2月号より)


 
  一大生産地である京都の陰に隠れて話題になりにくい「大阪キモノ」の豊かな世界——。呉服商の老舗、大阪・心斎橋筋の『小大丸』の社史『小大丸弐百年の歩み』(執筆/故宮本又次博士)を手がかりにたどる、大阪の和装文化の佇まいやキモノ流通の変遷。(小川月舟寫眞場提供)
 
大坂で花開く古着ベンチャー

 江戸時代は徹底したリサイクルの時代だった。すべてが手づくりで、簡単には量産できない。貴重な生産物を循環させ、なるべく長く活用したうえで使い切るという発想で世の中が回っていた。中でも織物の生産は限られており、キモノはリサイクル商品の代表挌。再利用しやすい商品特性もあって広く流通し、古手屋(古着商)が大きな役割を担っていた。
 古着といえば路地の片隅での小商いというイメージを受けるが、多くの人口を抱えた大坂では古着商は商売の王道。人気の店では季節遅れの新柄も扱い、女性たちの華やいだ声が響く。需要のあるところに商機が生まれ、商機に賭けるベンチャー企業が誕生していく。古手屋で信用や資金、経営ノウハウなどを培った後、呉服商へ発展する店も多かった。宮本博士はこうしるす。
「古着商は本町に多く、御霊筋、座摩の前にも多かった。大阪の呉服商中には古手屋から起こって大をなしたものが多い。例えば平井小橋屋(北久宝寺町通り、御堂筋西南角)なる呉服屋ももとは古手の買次問屋からおこっているし、十合も文政年間に、大和から出てきて、当時古着屋街として著名だった座摩神社前西側で、「会合」となづけて、古着屋を開いたのが発端だという」
 十合とは後のそごう百貨店で、呉服商をルーツとする百貨店もおおむね古着を扱った経験をもっているようだ。


美意識が裏地に見え隠れ



 
  江戸時代、心斎橋筋の呉服店松屋・大丸。(『摂津名所図会』より)
 
 江戸期の大坂の町人たちはどんなキモノを着ていたのだろうか。宮本博士は大坂の風俗を伝える『浪花の風』の中の「浪花も京都と同じように衣類を貯える傾向がある。裏長屋住まいであまり暮らしに余裕のない夫婦でも衣類は分をすぎて貯えている」という要旨の下りを取り上げ、大坂人のファッションへの関心の高さを強調する。
「江戸時代の前期の大阪は、地質の立派なものを好み、紅、黒、白、緑の色目がはやり、染には糊置、摺込、鹿子などが行われ、ぼかしも大阪が早く、元禄期には友禅染がもてはやされ、衣服の贅沢は大阪にとどめをさすといわれる位に豪華になった」
 大坂の歌舞伎役者、佐野川市松が市松模様、瀬川政彦が政彦茶をはやらせた。現代と同じようにタレントがファッション・トレンドの情報発信役を演じていたわけだ。こうしたアイドルの『追っかけ』に興じる女の子たちはというと、こちらも今と同様、わざと崩した悪っぽい着方を競い合ったらしい。
「娘は惣文様の振袖が多く、大阪ではとくに前をば深く合し、下前を重ねて深く合せ、半ば外へ折返し、その上へ上前を重ね、下前の裏文様を出し、下〆腰巻もあらわに出した、いわば自堕落の評があった」
 キモノの隆盛は大坂町人の財力と美意識がささえていたが、幕府は幕政が行き詰まると綱紀粛正を唱え、ファッションの規制に乗り出す。しかし、そこからが大坂町人の真骨頂だ。宮本博士は指摘する。
「絹の高級品を用いることに当局の目が光ると、(旦那衆は)おとなしく木綿のように見え、そして実は普通の絹よりもずっと高価な紬を着たり、山蚕の着物をつけたりした。女も表に派手な模様をつけることがはばかられると裏模様をつけ、下着にも凝ったものをつけた。そして意匠のはつらつしたものよりも、技巧の精緻をもとめたのだった」
 表面的な華美に走ることなく、野暮はやんわり拒む。自分なりの美意識をさりげなく分相応に追求する姿勢には、むしろ現代人が見習いたい確かなスピリットが息づく。

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