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ボストンのMITに滞在しながら現代美術シーンを紹介します。
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+ 池田孔介
1980年生まれ、美術家。東京藝術大学大学院修了。現在、文化庁在外研修員としてボストンのMITに滞在中。 WEB SITE


場所とは

まだ11月にもなっていないというのに、こちらでは思い切り雪が降っています。軽く、ではなく今にも積もりそうな勢い、実際、家々の屋根や車の上には積もりはじめています。正確な気温はよく知りませんが、日本の真冬並みの寒さなのではないでしょうか。注視せよ、と言われても雪で視界が悪くては見るべきものも見えません、部屋の中でごちゃごちゃ文章を書いたり、本を読んだりするに限ります。窓の外の雪を眺めながら思い出すのは、ユタ州はグレート・ソルト・レイクの塩分で真っ白に染まったロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェッティ(Spiral Jetty)」(1970)、未だ実見したことのないその作品に思いを馳せるのは、先日観たホイットニー美術館での「ロバート・スミッソン」展が記憶の隅にあるからに他なりません。岩や泥を素材に全長約450mにも及ぶ螺旋状の道(のようなもの)を湖岸から突き出すように配した作品です。インタヴューで作家本人が答えているのですが、この作品は実際の作業に二週間、交渉と準備に二ヶ月しかかけていないそうなのです。しかもそのことを特になんの含みもなくさらっと言ってのけます「いやあ、アレが出来た後はハッピーだったよなあ」と(*1)。私は構想三年、制作半年くらいかかったのではないかと踏んでいたので、大きな驚きでした。


 
  Spiral Jetty(1970), Great Salt Lake, Utah
 


 
  スパイラル・ジェッティを望むスミッソン(左)とインタヴュアー
 
先にも書きましたが私はこの作品が実際にあるグレート・ソルト・レイクへ赴いたことがありません、いやしかし、そもそも作品が存在する場所とは何なのでしょうか、スミッソンというアーティストはそのような疑問へと私たちを導きます。批評家ロザリンド・クラウスは「拡張された場における彫刻」(『反美学 Anti-Aesthetic』所収)という論文の中でロダンの「地獄門」と「バルザック像」がそもそも特定の場所にモニュメントとして設置されることを前提に制作されたにもかかわらず、結局そこに置かれることなく様々な国の様々な美術館に多数点在することを示し、これをモダニズム彫刻の始点とします。つまりモダン以前の彫刻作品は、ある特定の「場所」と分ちがたく結びついた形でのみ存在しうるのに対し(ベンヤミンにおけるアウラの問題を想起してもよいでしょう)、モダン彫刻は作品の存在と切り離し得ない展示場所を持たず、さらにいえば、それゆえにこそ、作品それ自体として自立しうる可能性を追求した、ということにもなるでしょう。

それでは、「スパイラル・ジェッティ」のような、そこに行かなければ実見することができない作品、端的に言って持ち運び出来ない作品を制作したスミッソンは、つまるところ、鑑賞者に対し前近代的な観るための「場所」へ赴くことを要請しているのでしょうか、いえ、そうとも言えないと思います。実際、彼自身が先のインタヴューの中で、観客がこのような作品をギャラリー空間に展示された写真や映像として観ることに関して肯定的に考えており、つまり、ギャラリー空間にいながら他所を思い描くことこそが重要なのだと述べています(そう言ってもらえれば、降りしきる雪の中、この作品へ思いを馳せる私も救われるというもの)。そしてこのような、ギャラリーでの展示とその外にあるものとの関係は、一連の「ノンサイト(The Nonsites)」(主に1968)という作品群において明確に主題化されていたのです。これらのほとんどの作品は、ドキュメント(地図、写真、テキスト)とマテリアル(砂や岩など)との二つの構成要素をギャラリー空間において対比的に扱っています。前者はある特定の場所の情報や記録写真、後者はそこにあった物体を運んできたもの。ここで複数の写真は同一サイズの正方形となり整然と並べられ、その写真配置と対応する形で、岩のような有機的なマテリアルもまた金属のフレームによって方形に縁取られるのです。つまり前者においてそれぞれの場所を記録し、それらを押し並べて均一化した記録が並んでいるのだとしたら、同様に、後者においては個々の有機的特徴をもった自然物が無機的な金属によって均質化されている、ということが出来るのです。さらにこれらが一組の作品として展示しているということは、すなわち二者に共通に見てとれるような、個別性をフレームによって区切り、平均化していくある種の力が主題化されているということであり、そう、もはや言うまでもなく、それは個々の作品に対してギャラリー・美術館という特別な「場所」が持つ力そのものに他ならないわけです。


 
  Installation view, Nonsite(Oberhausen, Germany), 1968
 
ギャラリーというような空間にあえて展示することによって、その空間が持つ権力を指し示すこと、これを「ノンサイト」において見てとった私たちは再び「スパイラル・ジェッティ」へと舞い戻りましょう。先ほど引用したロザリンド・クラウスは『Passages in Modern Sculpture』という自書の中で、ロダンからブランクーシ、ミニマリズムを経てランドアートへと至る「展開(passage)」において、特に60年代末以降(それはこの本が書かれた時期とほぼ同時代です)の現代彫刻が、作品と鑑賞者が出会う「通路(passage)」を獲得してゆくことを強調します。つまりそれは、静的・観念的な表現形態から、より一時的・具体的なそれへと展開するなかで、作品と鑑賞者との関係性それ自体が重要視されるようになった、ということです。そして、その締めくくりには「スパイラル・ジェッティ」が。螺旋状に形成された道において観る者は瞬間ごとに変化してゆく経験を得ることになり、そのような鑑賞者と作品とが出会う「通路」そのものがこの作品なのだ、と。しかしクラウスは、私たちが作品を現地で体験する限りにおいて上のような通路が現れることになる、というような断定を避けているようにも思えます。というのも、このような鑑賞者と作品とをつなぐ通路なるものは、プルーストの小説において、マドレーヌという菓子が呼び水となって一連の記憶が喚起されてゆく経験のありかたとの類似として語られているからです。心ならずの些細な記憶を引き金として現れてゆく過去、そのことと作品を感じ取る私たちの経験とを重ねあわせる事ができるとすれば、すなわち、そのような作品経験はいつも偶発的な通路の開けを基にして行われるということでしょうか。実体験という形で特権化する事をむしろ避けるかのように写真や映像という形で残された様々なドキュメントは、螺旋状の道へと開かれている、私たちと作品とを結ぶもう一つの「通路」と言えるかもしれません。

再び窓の外を眺めれば、未だ雪が降り続いています、ここケンブリッジに舞う雪を通路として白い「スパイラル・ジェッティ」を思い浮かべるとは、なんとも貧相な私の想像力を物語っているようですらあります。螺旋状に突き出した湖上の道を歩いてゆく、そしてこの文章もまた、当て所なく彷徨い、どこへも行き着くことないままに閉じられることになるでしょう。せめてその徘徊の途中で何かしら、いまそこで、これを読んでいるあなたに伝えることが出来れば良かったのですが。




* 1 本展カタログRobert Smithson: The Museum of Contemporary Art, Los Angeles ,2004 内のインタヴューを参照。なお、このカタログには作家が所有していた本や雑誌、レコードのリストが添えられており、アーティストであると同時にライターでもあったスミッソンの多岐にわたる関心が垣間見えます。そう数は多くないもののロックからクラシック、現代音楽まで散見されるレコードコレクションは見物です。

“Robert Smithson”
ホイットニー美術館(NY) 6.23−10.16 2005

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