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「生まれたのは大阪なんだけど、すぐ徳島へ行っちゃって、次は滋賀県の守山市。それから小学校の高学年になって、大阪の豊中市へ引っ越してきたんです。南桜塚小学校、そして豊中市立第一中学校、池田高校と。

小学校の時は水泳部だったんだけど、子供ながらに、個人競技はキツイなと思ったのね(笑)。仲間との語らいもなく、ひたすら自分との闘いというのは。だから中学に入るとその反動で、とにかく一番チーム人数の多い競技をやろうと思って、15人が1チームのラグビー部に入ったんです。同時に陸上部で長距離走もやってて、当時はかなり速かったんだけど、高校の運動会で走った時に随分遅くなっていて、そこで肉体の限界を感じまして(笑)。それで高校では、ラグビー部と文芸部の両方をやるようになって(笑)。

折しも時代はウッドストックからの流れで、中津川フォーク・ジャンボリーがあったり、レッド・ツェッペリンやらディープ・パープルやら、外タレのロック・ミュージシャンが来日公演を行なったり。そういう70年代初頭のサブカルチャー・ムーヴメントに、思春期がモロにブチ当たってしまった。

そんな時、大阪のサンケイホールで、天井桟敷の『邪宗門』という芝居を観たんですよね。寺山修司さんの本は、『誰か故郷を想はざる』や『書を捨てよ、町へ出よう』などをすでに読んでいて、その言葉のレトリックにハマっていたんだけど、その公演でバーン!と決定的な衝撃を受けたわけです。

それから演劇に興味を持つようになって、黒テントも紅テント(状況劇場)も、大阪公演があれば必ず観に行きました。海外からロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが来たら観に行ったし、もう熱に浮かされたように演劇を吸収してた時期だね。

でもやっぱり、天井桟敷が一番かっこよかった。海外公演やると『平凡パンチ』のグラビアを飾ったりするし、ウッドストックやツェッペリンなんかとニアイコールになって、時代そのものというイメージがあった。他のアングラ劇団は、日本の旅芝居をどこか引きずっていて、もっと泥臭かったんですよ。だけど天井桟敷は劇場の解体とか市街劇を謳っていて、フランスの五月革命や赤軍派などとリンクする感じがあったんですよね。ブランドとしても、やってること自体も。

僕は『地下演劇』とか、天井桟敷が自画自賛している発行物を当時読みあさっていたから(笑)、そうすると寺山さんがハッキリ書いているんですよ。天井桟敷は社会転覆を目指す、と。演劇で革命をやろうとしたわけですね、簡単に言えば。演劇とかアートとかというジャンルを超えて、そういうコンセプトそのものが面白かった。それで僕は、かっこいい! これや!と(笑)。


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