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池田:まずはじめに、最近のことを伺いたいと思います。ちょうど今YCAMICCでの大規模なインスタレーション「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」の展示が一段落したタイミングということでもあるし、6月のKodama Gallery(東京)での個展もありました。
そういうのを見させていただいて僕が思うのは、今年(2007年)に入ってからということになるのでしょうか、印象としては高谷さんの転換期にあるのかなあ、という感じがしたんですね。僕らが漠然と持つ高谷さんに対する印象でいうと、Dumb Type「OR」以降ということになるのでしょうか、圧倒的なまでの多くのイメージを高解像度で、かつ圧縮された形で観客に強く突きつけるような、あるいは「optical flat」で見られるように、じっと視線を集中させて見る者に緊張度を強いるような作品を想起します。それに対して今回のICCでの展示では、週末なんかに行くと、たくさんの観客が皆、床に寝転がって、すごくリラックスして楽しんでいる感じでした。

高谷:そう、実はウェブカムがあって会場の様子を見る事ができてね、面白かったんですよ。

池田:あるんですか!!(笑)

高谷:そうなんですよ。僕と坂本さん、あとはプログラマーの人も見られる、まだ不安定な部分もあるので、作品の状態を監視するためです。あと、あの作品はいわゆるシーケンシャルな作品ではなくて、例えば15分見ていれば、全部が見られるというものではない。映像も音楽もランダムな構造で作られているから、どこまででも見ていられるし、逆にいつまで見ていても全てを見られるわけじゃない。
そんな中で一点だけ、全部の音楽、映像素材が送出され終えた後に、一回だけリセットするようなシーンがあるんです。そのパートだけは映像も音もランダムではなく構成されたものが入ってくるという、10分くらいのシーン。最後にはプロジェクターのシャッターも閉じて真っ暗になる、そういうリセットの時間。山口の段階では8時間くらいでリセットがかかる、ということになっていて、一日に一回あるか無いか。でもそれだとあまりにも回数が少ないし、何か外部からの情報を取り入れたくて、インターネットとか風、太陽などの要素をその情報として考えていたんですけど、どれを選んで詰めていっても、結局は「一日に何回欲しい」とかいうこちらの希望を考えてしまうことになる。でも、そういう希望のもとに外部の要素を決定するんだったら意味がないわけで、じゃあどうすればいいんだろう、と。で、暫定的ではあるんですが作家がどこからでもインターネットでアクセスできて、ウェブカムでインスタレーションの様子を確認しつつ「今だ」という時にボタンを押す。どうせ恣意的ならそれくらい恣意的な方がいいんじゃないか、とそういうことをYCAM で始めたんですよ。ICCでもそのシステムは残していました。

池田:それこそ作品として完結したものというよりは、むしろ外側からの介入を作品自体が受け入れるような形なんですね。

高谷:そうしておきたい、というのがありました。何か良いリセットのためのトリガーが見つかればそれでもいいですが、それまではこれでやっていこう、と。

池田:例えばそういった、ある種の余白というか、外からの侵入を受け入れるような空間というものに関していえば、6月の児玉画廊での「photo-gene」でも見られました。白黒の空の写真が正方形に提示されていて、同時に、写真と同サイズの鏡がフレームに入った状態で展示されていました。鏡というものはまさに、それ自体が完結したイメージを持つというよりも、鏡と鏡を見る者との関係性それ自体によって、常に変化を続けます。そういった変化を受け入れるようなものを作品として提示されているというのは、何か意識の転換などがあったのですか。

高谷:意識の転換というわけでもないのですが、毎回作品を作るたびに自分の作品のコピーのようなことはしたくないんですね。僕の場合、元々ギャラリーと一緒に組んで、作品を売っていく、というようなタイプのアーティストではないし。Dumb Typeではそもそも、パフォーマンスでもインスタレーションでも、いろんな人に見てもらうために巡回させながら、お客さんと作品の経験をシェアしていくという考え方に近いので、コレクターに売るというシステムの中で動いていない。その中で培われてきた意識としては、いわゆるマーケットを意識して、このパターンが成功したらこれをどんどん作り続けようというやり方には興味ないんです。そういう意味では、毎回作品を作るたびにリセットがかかっている、というくらいの気持ちでやっていますね。

高谷:「photo-gene」の最初のイメージでは、とにかく白黒写真を使って作品を作りたかった、というのがあります。というのは、今まで色々な「イメージ」に関わって作品を作ってきましたが、写真というのはその間、ずっと惹かれるマテリアルだったんですね。写真というのはモノじゃないですか、最終的には。情報は薄くのってるんですけど、紙というマテリアルが美しい=カッコいい。限りなく平面に近いんだけど、立体作品ともいえる。
その前の児玉画廊(大阪)で発表した「Camera Lucida」という作品を今回ドイツで展示してきたんですが、レンズとスクリーンだけがあるというような作品で、再展示していて思ったんですけど、イメージって僕らは見ているじゃないですか、目からどんどん情報が入ってくるという意味では。でも、僕らは普段これをイメージとして捉えていない。ではイメージとして捉えるものって何だろうと考えた時に、僕が最初にイメージとして考えるものは、光学的な装置を通じてスクリーンの上に定着、あるいは、その上にのっかっているもののことなんです。カメラやヴィデオのファインダーをのぞいている時はイメージという印象がないのに、その横につけられたモニターに映った映像を見ている段階で、これはイメージだな、と思った。それはもう自分の目の延長上にないんですね。ここにあるモノになっていて、これがイメージなんですね。
鏡に関していえば、「photo-gene」展の後に坂本(龍一)さんと大徳寺でライヴをして、その時も映像のアイディアについていろいろ考えていたんですけど、どこかで撮影してきた映像をプロジェクションする、みたいなことよりも、もっとシンプルな、原始的な映像を使えないかなと思って、鏡を使ったんです。個展の時に鏡を使っていたのも同じことで、つまり、映像装置なんですよ。しかも「photo-gene」で使っていたのは単なる鏡じゃなくて、パフォーマンス「Voyage」の舞台で床に使っていた鏡なんです。なので擦り傷なんかがたくさんあるんですけど、もしも単なるきれいな鏡だったとしたら、映像がそこで止まらないなあ、と思っていたんですよ。イメージが向こうへ突き抜けてしまって、フレームがフレームとして存在しない。でも、パフォーマンスの痕跡でもある傷のおかげで、イメージが止まるんですよね。


池田:たしかに高谷さんが制作をされている中で「イメージ」というものは中心的な問題だと思います。では、そのイメージの条件というのは何でしょうか?空の写真ということで言えば、上を見上げているその視覚的情報は、高谷さんの考えるイメージではない。


高谷:見ていること自体はね。僕が感じていることで、共有も出来ない。

池田:それが写真になってイメージになる。そこにはどのような違いがあるのでしょうか。一つにはフレームへの意識、もう一つは支持体への意識ということでしょうか。傷のついた鏡に言及されましたが、傷があり、イメージが歪められることによってこそ、モノとしての支持体の上にイメージが現れている、という事態が意識化される。

高谷:そう、意識化された映像。なおかつ二次元まで次元が一つ落ちていること。自分の通常の感覚よりも一つ次元を落としておいた方が、意識化しやすいんですよ。なのでスクリーンを通した時点で、僕にとってイメージが始まるんだな、という気がしますね。

「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」では記録映像をたくさん使っています。僕が撮影したものでなかったり、地図であったり。例えばあれがきれいな磨りガラスとかにプロジェクションしていたとしても見れなくはないと思うんですよ。ただそうなってきた時にソースが持っている解像度とかがクオリティとして問題になってきてしまう。そういう意味ではあれは、映像としてというより、そこで発生している出来事として受け取ってほしい、という気持ちがあったんです。透明な箱の中で映像が霧に映されることによって、もう一度、出来事になる。それごと受け取ってほしい、という所がありました。

池田:確かに霧の部分は、映像そのものの蒸発を見ているような、そういう意味ではまさに出来事として見えてくるものでした。映像がもつ意味内容が、気体となって消滅していくかのような。


高谷:あと今回、音楽が面白かったですね。18個のマルチトラックで走っている音をランダムアクセスで構成していて、坂本さんが言っているのは、線的なものではなく面で構成する音楽、ということ。よくあるサラウンドも空間の音楽だと言われるけれど、結局はベストの1ポイントがあるんですね。そういう意味では点の音楽にも近い。ステレオだって同じ。パフォーマンスを作るときいつも悩むんですけど、客席の真ん中の列のこのあたりの人は一番ベストな音で聞ける、とか。もちろん出来る限りの配慮はするのですが、結局は点に近くなってしまう。池田(亮司)君ともそういう話をしてて、じゃあ次はモノラルで行こうか、とか(笑)。そう考えてみると、面で、というのは面白いな、と。聞くポイントによってばらつきはあるんだけど、どこがベストというのはないんです。あれもサラウンドのような三次元ではなく、二次元的な面がイメージされている。


池田:音楽同様、映像にもランダムネスと多面性が導入されていましたね。


高谷:そうですね。結局、パフォーマンスっていう形で、ある時間客席に座って見てもらう時、ランダムネスを導入してみても、それはお客さんにとっては、リニアでもランダムでも同じことなんですね。結局、オペレーターがやっているようにしか見えない。それだったら、ベストのものをベストな構成であらかじめ作ってしまおう、というのがDumb Typeのパフォーマンスの作り方。

池田:それに対して、インスタレーションでは全く違うアプローチが出来るわけですね。

高谷:今回は特に、全然違うアプローチ。ランダムネスを作品に取り入れたのって初めてに近いんじゃないかな。そういう意味で、変わったと言われるのはすごく分りますね。

池田:あの展示で印象深いのは、観客それぞれが作品を自然に受け入れているという感じがしたんですね。作品にオープンな回路を導入する、そう考えてみた時に、もう一方で「インタラクティヴ」な構造で「どうぞ触ってくださいね」というメディア・アートがあり得ると思うんです。でもそれはある意味で、観客の身体の動きを規定してしまう、参加を強制されているようにも思えますよね。

高谷:ねえ。こっちが何かやらないと見れないじゃないですか!(笑)それは坂本さんとも話していて、「インタラクティヴィティは無しで行こう」と。最近、そういう作品が多いんですが、触らないと見られないなんて不便じゃないですか(笑)




池田:一応、このウェブマガジンはosakaという地名を冠している、という事もあるのですが、関西を拠点として活動されてきたDumb Typeの活動についてお聞きします。

(作家の活動の展開をこのように単純化できない事を承知で言えば)活動の一つの区切りとして、古橋悌二さんが亡くなった95年ということが考えられると思うんですね。つまり、84年から95年の約10年間を第1フェイズ、そして95年から「OR」「memorandum」を経て06年に「Voyage」のパフォーマンス・ツアーが一段落する、この約10年間を第2フェイズと捉えるとして、ここではとりわけ第1フェイズの方についてお聞きしたいと思っています。というのも僕が初めてDumb Typeの作品に触れたのは大学に入って間もない頃、99年に「OR」を観たのが初めてなんですね。で、僕のような年代の人間からするとDumb Typeという名は「OR」以降の作品によってその印象を決定づけられている所があるのですが、今回はむしろその前の段階、まずは84年にDumb Typeとしての活動を始められたあたりのことから伺いたいと思います。

高谷:84年にDumb Typeがスタートして、その時僕は大学に入学したばかりの一回生だったんです。で、メンバーには四回生までいたわけで、最初の段階という意味では、(古橋)悌二さんや小山田(徹)さんといった上の学年の人たちが下準備してきて、立ち上がったという感じがすごくありますね。僕としては、演劇というものにはあまり興味がなくて、アートというのにも興味はあったんだけれど、そもそもは建築への関心が強くて、デザイン科に行く目的で芸術大学に入ったんです。で、当時僕にとっては、アートっていうのは、ピカソのような近代までで、それ以降の現代美術っていうのは僕の中ではほとんど意識化されていなかったんです。デザインとは別物だと思っていたし、アーティストに何が出来るのかなんて悩んだこともない。デザイナーとして何か出来るだろう?その方がもっと世の中に関わっていけるだろうと思ってました。


高谷:84年に始めた時なんてヴィデオプロジェクターはないしヴィデオカメラも学校に数台ある、みたいな状況。「pH」でも壁に映している映像は16mmでやってるんですよ。ヴィデオプロジェクターはものすごく高価でしたけど、それでもこの時点では、フィルムで撮影して編集するよりもヴィデオの方が安かったので、ヴィデオで撮影して編集してフィルムに落とす。で、フィルムの映写機を各会場で用意してもらって16mmで映してた。

80年代、ローリー・アンダーソンやボブ・ウィルソンが日本で紹介されたりして、ああこんな表現アリなんだ、という感じはしましたね。ローリーの場合はコンサートっていう形式を借りたパフォーマンスですけど、Dumb Typeの場合はライヴイヴェントっぽい舞台作品というのを考えていけるのかなあ、とは思ってました。僕が一回生でDumb Typeを始めた頃、ビル・ヴィオラもそうですし、日本でもブラウン管を使ったヴィデオ作品を作るアーティストはいっぱいいましたね。松本俊夫さんとかも、映画やインスタレーションでなくモニターで見せる作品を作っていたし。

大学で古橋は「構想設計」という映像と近い学科にいて、フィルムというものについて話したりもしました。フィルムだと撮る事自体にお金がかかっちゃうので、ちゃんとシナリオがあって撮影の手順なんかも全部しっかりと決めてやっていくわけですよね。そういうのと違ってヴィデオの場合、どんどん撮っていって編集する時に見ながら作っていける。その違いというのは論議されていました。ダムタイプの後期、ビデオが使いやすくなっていって、ライヴ映像を取り込むようにもなったけど、フィルムだったら無理だったわけですよね。撮影して現像して編集して、という段階があるわけですから。そういう意味ではヴィデオなんかが出てきて、誰でもが使えるようになってくるのと一緒に成長してきた感じはありますね。

こういうの欲しいな、というアイディアが先にあって、で、タイミングよくその技術が自分の所まで降りてきてくれる(=安価になり使用可能になる)。そういうテクノロジーの流れと自分たちの関心との歩調がうまく合っていた感じはあります。で、知らぬ間にマルチメディアのパフォーマンスグループなんて呼ばれてましたけど、自分たちとしてはそんなつもりでやってたわけじゃないんですよね。テキストベースで情報を交換するシアターから、もっとヴィジュアルやサウンドを駆使したもの、ダンスや照明、映像を含めたヴィジュアル的な要素をメインに使ったコミュニケーションのスタイルを作っていこう、ということくらいですよね。

池田:そういった従来型の演劇に見られるようなものとは別のヴィジュアルな展開、ということと同時に、94年初演の「S/N」に顕著なような社会的テーマに対する問題意識が、それ以前の「Pleasure Life」や「pH」などからも継続的に見て取れます。そういう社会の問題とアートとの関わりということも、かなり議論されたりしていたんでしょうか。

高谷:なんか、そんな話ばっかりしてましたよ。一つの映像を使うという時でも、どういうコンセプトでどういう所から使おうか、という風に。だから話がしやすかったですよね。感覚的にこれが好き、とかそういう話じゃなくてコンセプチュアルに決めていける。

「S/N」をやった時によかったなと思ったのは、それまでも社会の問題とか差別の問題などあって、いろいろそういう問題と関わった作品ってあると思うんですけど、すごく、難しいんですよね。アートがそういう社会問題を利用しているみたいに見えてしまったら作品自身としての強さがなくなってしまう。「あーそういう問題提起なんだ」って理解できちゃうというか。

そうじゃなくて、もっと心の奥底に届けるためにアートがあるとしたら、言葉で伝えられないことを伝えるためのものとしてアートが使われる…「使われる」というというのはどうなのかな...まあそれはいいのかな。アートというものが社会的な問題を扱いながら、なおかつ作品として力のあるものになるというのが出来ないかなというのはずっと思っていたんですね。「S/N」の時は、自分たちの個人的なことと、社会的なことと、当時使えるすべての技術を使ったアーティスティックな部分、それら全部が一体化されていて、面白いな、というか、そんな冷静なもんじゃないんですけど。

で、95年に古橋が亡くなって、その後ぐーっとテクノロジーの方に引っ張っていくという感じはありましたね。今から思うと、そういう風にみえますよね。やっている時は、そういうことを特別意識してたわけではないんですけど。その頃すごくコンピューターが使えるようになってきていて、今となっては映像も十分、コンピューターから出せるんですよね。

「S/N」の時はヴィデオ4台で映像を出してたんですけど、BPM(ビート・パー・ミニット)を確か120とかに決めてるんですね。というのはビデオがそもそも30フレームで出来ているから。ビデオで割っていける数字、90だとゆっくりしすぎて、150では振り付けの方が早回しみたいになってくるから(笑)。タイプライターの音に合わせて字が出てくる所なんかも、しっかりとそれに合わせて作ってて。その120という数字はすごくヴィデオ的だなと思いますね。坂本さんと「LIFE」で仕事をした時に「BPMいくつですか?」って聞いたら31.586...とか、ばーっと並んでて(笑)。

で、そういう時代の後、コンピューターが入ってきて、テクノロジーの方の自由度が上がっていく中で作品が変化してきた、ということはありますね。それに対して身体表現とのバランスが少しづつ変わっていきました。それがいいとか悪いとか、そういうことじゃないけれど。



池田:最近のこと、20年さかのぼってからの10年間のことをお聞きしました。最後にお聞きしたいのは未来のこと、これからのことなんですね。というのも高谷さんは大阪の港でNAMURA ART MEETINGという企画の実行委員もされていて、この企画はNAMURA ART MEETING ’04 −「’34 」となっており、2004年から2034年までの30年間続く計画なんですよね。計算によると2034年には高谷さんは71歳で、それを見越した展開なわけですが...(笑)

高谷:いやいや(笑)見越してないです(笑)、「あー30年貸してくれるなら、そう宣言しちゃえば」みたいな(笑)。それだけの期間、場を使用させてもらえるということらしいので。NAMURA ART MEETINGが面白いのは、僕はいろんな人に話を聞くのが好きだし、そういう人が集まれる場所ができればいいなと。

高谷: そのアイディアのきっかけというか、ちょうどヨーロッパでDumb Typeの公演の前後にAny会議があって、浅田(彰)さんたちと合流したのですが、会議の場ではパネラーのひとたちはみんな、まとめてきたことをバーっと発表するんですね。それはそれで面白いんですけれど、それよりもその後にご飯を食べに行ったりして喋ってることとかがムチャ面白くって。NAMURAでも、あんな感じのことができればいいのにと思って。Anyは無理だけれど、その時々で面白い人を呼んできてなんかちょこっと話してもらって、その後ダラダラ居心地良くその人たちが残れるようなイヴェントにすれば、いろいろ話が聞けるじゃないか、と(笑)。

池田:僕が一度お手伝いをさせて頂いたのが2004年の浅田さんと岡崎乾二郎さんとの対談のときで、二人も残って、巨大なミラーボールのもとで高谷さんもいたし、柄谷行人さん、中谷礼仁さん、ぱくきょんみさんなんかも一緒にご飯を食べたりしてて、すごく幸福な記憶として残っています。ミーティングやクラブイヴェントそのものとしてだけでなく、そこから派生的に起こりうるハプニングや奇跡的な出会いへと開かれてゆくような回路になっていた気がしますね。

高谷:そういう機会に出来れば、とは思っていますね。今年は、Dumb Typeのインスタレーション(「Voyages」)を展示したんですけど、その展示空間で高橋悠治さんと浅田さんのコンサート+対談を計画しました。作品を前にしてピアノがあって、話と演奏がある。楽譜をプロジェクションしてみたり。作品の周りにある空間を共有できるような、いろんな出会いのあるような装置を作っていきたいな、とは思っていました。作品を展示するだけなら、いわゆる「何とかビエンナーレ」みたいな世界になっていく。もちろんそれを否定する気はないけれど、それはいっぱいあるし他に任せておけばいいわけですから。

池田:いわゆる作家として活動されていくのとは別の軸での展開として、何か今後考えられているヴィジョンなど教えて頂ければ。

高谷:最近、坂本さんから気候変動などの話を聞いていて影響を受けたということもあるんですけど、もともと社会的な問題と作品がどう結びつくか、ということはずっと思ってきていて、作品という形になるのか、どういった形でまとめられるのか分らないけれど、ICCでの展示の設営を終えてすぐに、イギリスのCape Farewellというプロジェクトで北極圏に行ってきたんですよ。アーティストと科学者が一緒に北極に行って、科学者は気候変動にまつわる実験、調査をしつつ、参加者は北極圏を実際に目で見て体験し、気候変動について考える、そういうプロジェクトで二週間ほど行ってきました。北極といってもノルウェーの北の島からグリーンランドまで行って、そこでフィヨルドの氷河などを見て、アイスランドまで行くという行程。帆船で移動するのですが、思っている以上にグリーンランドにたどり着けないんですよ。なぜかというと流氷がものすごく多くて、なかなか進めない。話を聞いていると今年だけで25%の北極海の氷がなくなる、と。「でも、氷[流氷]いっぱいあるじゃん」なんて言ったら、「いや、流氷っていうのは溶け出してきてるわけで、それが問題なんだ」って(笑)。

科学者の人たちと話していると、すごく恐ろしかったですね。10年前までは、このペースでいけば100年間で氷がなくなる、と言われてて、3年前にはそれが50年間に修正されて、今年に入ってからは10年以内でなくなるんじゃないか、ということになっている。それは海面の上昇とかそういうことだけじゃなくて、なんだか知らないけれどすごいことが起こっているんだ、という感じがします。

そういう話を聞いているとなんだか「マルチメディアでどうのこうの」って言ってるのって何だろうなあ(笑)って思ってきたり。だからといって僕が直接的に何か出来るというわけではないんですけれど、差し迫ってきている問題だなあという感じはすごくあるし、アートミーティングなんかでも、今後、そういう環境問題も話しあっていければ、と思いますね。