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1972年生まれ。「サイドカーに犬」(2001年)で文學界新人賞を受賞しデビュー。「猛スピードで母は」(2002年)で第126回芥川賞受賞。著書に『猛スピードで母は』(文春文庫)、『タンノイのエジンバラ』(文藝春秋)、『ジャージの二人』(集英社)、『パラレル』(文藝春秋)、『泣かない女はいない』(河出書房新社)、エッセイ集『いろんな気持ちが本当の気持ち』などがある。またブルボン小林名義として『ブルボン小林の末端通信』(光文社)『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(太田出版)。俳人長嶋肩甲としても活躍する。東京在住。
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1973年生まれ。「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」(1999年)でデビュー。著書に『きょうのできごと』(「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」所収、河出文庫)、『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』(河出書房新社)、『青空感傷ツアー』(同)、『ショートカット』(同)、『フルタイムライフ』(マガジンハウス)などがある。また『きょうのできごと』は2004年、劇場公開された(行定勲監督、田中麗奈、妻夫木聡主演)。 大阪在住。
  司会・構成
1972年生まれ。著書に『アクロバット前夜』(リトルモア)、『あっぷあっぷ』(村瀬恭子との共著/講談社)がある。京都在住。
 
誰にもたのまれずに書いた最初の作品って、長嶋さんは何年前ですか?

二〇〇一年(に文學界新人賞受賞)だから、書いたのは二〇〇〇年ですけど。

あんまり前でもないんだ。

そうだね。

柴崎さんは?

高校のときにふたつ書いてるから、最初といえば、それが最初。二四歳のとき、一九九八年に文藝賞に応募したのが、まあいちおう、実質的に一番ちゃんと、はじめて書いたもの。

ああ、そうか。応募の時代でいうと、ぼくも最初に書いたのは九三年です。大学のとき。あ、じゃあ、編集者の人たちと知り合うようになってからも、もう長いんですね。

そう、長いです。うん。

もうすぐ、もう二年ぐらいで……。

一〇年になっちゃうね(笑)。はやーいと思って。もうそんな長いんだあって。

ぼくも『リトルモア』に応募して、まあ『リトルモア』を文芸誌としていえば、それで佳作とって、編集者に会ったのが九八年で、それが編集者ってものに会った最初。

そういうのって、自分のなかで書く姿勢とか書く環境って変わるものですか? 編集者との出会いで。

何かいってもらえるっていうのはね、やっぱり、よかった。「おもしろかった」とか「おもしろくなかった」とか(笑)。「ここがいい」とか、「もっとこういうふうにした方がいい」とか、いってくれるっていうのはやっぱり、ちがうなあって。「全然だめ」っていわれたこともあるし(笑)。それはもう、二、三本、もう全然ボツったやつもあります。

だいたい同じだね。

でも、編集者によって、全然ちがうし。『フルタイムライフ』(マガジンハウス刊)だったらここがどうとかここを直して、みたいなのはほとんどなかったんだけど、他のやつ、短編の「ショートカット」(『ショートカット』河出書房新社刊所収)とかは、五〇枚だけど、あれは最初は二五〇枚あって(笑)。

二〇〇枚、取られたの?

うん(笑)。「真ん中の二〇〇枚、いらないよね」って編集者にいわれて(笑)。でも、そういわれたら、「そうかも」って。

取られる側の方がでかいじゃん。

……すごいな(笑)。

ぼくも面取りされるとヘコむんだけど。原稿にこう線が入ってて、《×印に続く》とか書いてあって、めくっていくと、×印が書いてあって、《ここまで不要、トル?》って書いてあって(笑)。

そういう具体的な感じじゃないんだけど、話してて、「真ん中がねえ、長いんだよねえ」とか。だからそういう具体的にここを取るとかはなくて、「この場面はなんで、こういう場面なの?」みたいな話をいつもする。

ああ、流れのなかで。

うん、やってる。「じゃあ、いらないかも」みたいな感じに(笑)。うん、それは納得して「ああ、そういわれたらそうか、いらないかなあ」とかって。でも、全然思わないときもあるんですけどね。「え〜?」って。「ちょっと、それはないと思うわ」ってときは、もちろんあるけど。

文字どおりの《ショートカット》なんだな。
残りの、その二〇〇枚ぐらいのものを、もう一度、料理に使うみたいなのは?

使ってない……。

使ってないんだ? ぼくなら、書いたものは愛しいから、なんとかその二〇〇枚を、ふたたび卵でとじて(笑)。

うーん、あれは生かしてないですねえ。他のは、他のでボツになったやつは、復帰したりとかはあるんだけど。あの「ショートカット」で切った原稿は、どこ行ったんだろうみたいな感じ。すごい恥ずかしい(笑)。ガルシア・マルケスのね、何かの本の序文にね、作家は書いた枚数じゃなくて、捨てた枚数で判断されるべきだ、とかって書いてたから、「ああ、もう、切ろう」って(笑)。

でも、捨てるために書くわけじゃないもんね、そのときは。

うん。いいと思って書くんだから。

俳句とかは、「多作多捨」っていってさ、すごい数、句を詠むでしょ。

ああ。いっぱい作って、そのなかからいいのだけとる。

そうそう。カメラマンがフィルム何本使ってんだ、ぐらい撮って、雑誌に載るのは四枚みたいなさ(笑)。たくさんシャッターを押すっていうのが、その四枚のために必要みたいなさ。

うん。ほんとに必要なんだよ、あれは。写真をちょっとやってたから思う。いっぱい書いて、いっぱい捨てるみたいに、あれはやっぱり何本も撮らないと、いくらうまくなっても、その数が減るとかってことはない。

そうなんだ?

逆に増えるぐらいの感じで。

ぼく、写真はわかんないけど、俳句でのその話は疑っててさ。マシンガンで撃てばどれかに当たるというふうに聞こえちゃうわけよ。

写真には、シャッターひと押しでっていう人は、たぶん、いないと思う。

いないんだ。

以前、土門拳のベタ焼きをそのまま展示してるのを見たことがあって、そこに○ってさ、ひとつかふたつ、これを引きのばすっていうしるしで○をつけてる。けど、してないやつも、おもしろいんだよね。

そうそうそう。全部おもしろい。

けど、捨てちゃうんだ。捨てるっていうか、○にならないんだ?

それ見て、編集作業という感じがしたよ。

赤塚不二夫が一〇〇〇か二〇〇〇くらいマンガを描いて、ヒットしたのが、『天才バカボン』と『おそ松くん』と『もーれつア太郎』と『ひみつのアッコちゃん』だけだったって(笑)。本人は謙遜の意味で、ようするにそれだけしかヒット……、こんだけ描いてもそんだけですよっていうのをいうんだけども、その残り、一九〇〇いくつ、みたいなのが、必要だったんじゃないか、とかいう評論を読んだことがあってさ。逆にいうと、その四つ出せたのがすごいみたいなさ。売れるのだけがいいって意味じゃ、もちろんないんだけど。ノリノリで描けたその四作品のために、ノリノリじゃなかったものがどっさりある。そういうと、多作多捨ってのは、いえてるのかもしれないけど。

うん。

でも一方で多作を疑う理由のもうひとつは、多作を求められ始めることによって、そのことで必ずしも、そのつど、アベレージを残せてるかどうかっていうのを、ぼくは疑ってるんだよね。

でも、編集者にわたして、直すのがあまりに多そうだったら、それを自分から引っ込めちゃう。別のところにもっていこう(笑)。あと、芥川賞とかとると、すごいタイトなしめきりをいわれたりするから、向こうもボツにできないみたいなさ。

ああ。

向こうの側に何か発生するらしいんだよね。ぼくは全然いつでもかまわないわけだから。

受賞第一作とかね。

まあ、《受賞第一作》っていう言葉も、受賞したとき、そんなのがあるんだと思った。

ね! あれね(笑)。

そんな別に、第一作とか第二作だからって、たいして、すばらしいことじゃないんだけど。それは、いってみることのおもしろさで、《受賞第一作》というのを使って、何かできるかもしれないと思ったけど、そのおもしろさに気づいたときは、受賞が終わってたから(笑)。もう受賞第一作は書けないんだよね。

ああ、そうか。受賞第二作って、あんまり……。

そんなの銘打ってくんないからさ。数字みたいなものにこだわるのは、男の子っぽい気がするんだけどね。それこそ文芸誌、五誌載る、みたいなさ。

男の子のコレクター心理みたいな感じですね。

自分の短編が、こないだ、去年載ったので、三〇作目って、数えてる。そうすると、誰も数えてないから、誰もたいして読んでもいないし、注目してなかった作品も、みんなにほめられた作品といっしょに、同じワンカウントみたいにしてる自分にちょっとこう、酔う(笑)。

長嶋さんはそういう、文芸誌五誌全部に書くとか、自分の作家のキャリアの自慢とかではなくて、むしろ地図をひろげて埋めてく楽しみ……、それって、ゲームをしてる楽しみでもありますね。

たぶん、ブルボン小林とか名乗るのも、そうだよね。

女の人はあんまりしないと思う。

ブルボン小林で最初に出した『ブルボン小林の末端通信』(光文社刊)てのが、実用書っぽい内容でくだらないことをしゃべるっていう、実用書のパロディだったんだけど、光文社のカッパブックスで出すことがもう冗談の一部なんだよ。

うんうん。

ちょっと大きめの書店だと、カッパブックスとごま書房のごまブックスと、いわゆるカタい岩波新書じゃない、軽い読みものとしての実用書がブランドとしてある。実用書のパロディを思いついて作った、その直後に福永さんと知り合ったんだよね。で、福永さんのいろんなものの見方とか聞いてるうちに、おれがやりたかったのは、もっと、本屋を使って……。

うん、インスタレーションだ(笑)。

そうそう。ここにおれの本を置くっていうことも表現なんだって分かった。最初はさ、実用書のパロディとしておもしろいじゃんぐらいの意識だったんだけど、福永さんとつきあってくうちに、だんだん自分のやってることがアーティスティックな、いい言葉でいえば、本屋まで使う、あとブランドも使っちゃうみたいなさ。それは活字や文字を書くっていう行為じゃないんだけども。しかも、ブルボン小林って名乗るってことは、それだけで本屋を二ケ所、使える。

ああ、ああ、なるほど。

何かね、それも男の子っぽい気がする、何となく。

そうだね。長嶋有とブルボン小林といっても、覆面作家っていうほどかくれてもなくて、自分で半分正体を、ほんとは、さらしている。お面みたいだね。

そう、お面みたいだ(笑)。ただ今年、絶版になっちゃったの。裁断処理されちゃったの。初絶版。

それはつらい(笑)。

で、それは相当憤慨したんだけど、福永さんに、「それもふくめて創作だ」みたいな、よかったじゃないか、みたいにいわれて(笑)。本の行く末までもが創作。

だって内容が、ねえ、ネットに関するものだったから。

考察みたいなものだったからね。

ロングセラーというのは、すごく似合わない。

ありえないよね。もう何年か後には、ネットの世界なんて変わってるから。だからふさわしい……。

もちろん、書いた側にとっては、等しくつらいとはいっても、一方で文学でロングセラーでずっと残るものを書いているんだし、こっちは、ブルボン小林では、すごく短命な、昆虫みたいなもの(笑)、何か、ピョンピョン跳ねるような、元気のいい虫みたいなものを作っているというのは、とてもおもしろいよ。

うん。

すごく自覚的にはなってんだよね、たぶんね。いろんな体裁の本が、同じ出版社でもいろんな形式だったりさ、同じ本が文庫になったりとか、かたちとしていろいろあるし、単行本になるうれしさとしては、まとめて読めるということがある。捨てられずにいる家の『文藝』とか『新潮』をめくってけば、全部収録作はあるわけだから、軽くだまされてる気もするんだけど(笑)。

柴崎さんのデビュー作「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」(『きょうのできごと』河出書房新社刊所収)は短編として発表されて、それだけを読んでる人って、単行本で読むのとはちがう体験をしてるってことだよね。

ああ、話がつながってるっていうのを知らずに……(でも実際、書いたときは単独の作品でした)。

そうだよね、おもしろいよね。それに、デビュー作は誰にも求められてない状態で書くものだから。

保坂(和志)さんがどこかでさ、自作でいちばん好きなのは『プレーンソング』(講談社刊/中公文庫)っていってたんだけど、それは誰にもたのまれずに書いたから。それはよくわかるし、もう一生できないといっているんだね。

ああ、もう一生できないね。

そうだねえ。

これはどこに載るっていちおう、決まった状態で、もう今は書くから。これ書いてどこに載せようってのは、あんまないよねえ。

ましてや、お題やテーマまで、向こうがいってくることもあるからね。

そう、いってくるからねえ。いってこられるの、苦手(笑)。すっごいやりにくい。

あ、そうなんだ? ぼくは短編だと、こういう三題噺みたいなことをいわれると、負けず嫌いだからか、「どれ!」と思うけど。

ああ、じゃあ、競作だったら、だれが出るとか、他の書き手はだれとか聞くでしょ?

聞く、聞く。こないだのアンソロジー(『東京 19歳の物語』G.B.刊)も、おれは柴崎さんが書いてたから、やったんだよ。

はははは。

本当にそう。

責任感じるんですけど(笑)。そんなこといわれたら(笑)。

もちろん雑誌に載ったのを読んでおもしろかったから、そう思ったんだけど。だから責任感じなくても(笑)。
子供の頃、小説書いてた?

書いてましたね。

あ、やっぱ書いてた?

ふふふ、書いてましたねえ。小説というより、詩が好きで、詩を書いてたんですよ。小学校のときから好きで。最初、だから、こういうことしようと思ったのは、詩を書きたかったから、というか。

そうだったんだ。

短い言葉で、かっこいい。ああ、こういうのがあるんだ、いいなあ、みたいなことを、たぶん思ってて、そういうのがやりたかった。本も好きだったんだけど、ストーリーでおもしろいのをやるっていうよりは、言葉の組み合わせで、すごい、みたいな(笑)。『一年一組、せんせいあのね』っていうね、小学生が書いた詩の本があるんですけど、それが好きだった。同じ一年生の子の書いた詩が載ってるんだけど、……めちゃくちゃいいんですよ(笑)。

へええ。

自分と同世代ぐらいの子供たちの詩を読んで、「あ、この子、すごい才能あるわ」とか。ふつうのもあれば、めちゃくちゃいいやつもあるわけですよ、すごいなあっていうのが。そういうのが好きで、「すごくいいなあ」って。

同い歳ぐらいでもう思ってたんだ? すごいな。

思ってて。そんなかに、全然ひらがなとかが書けてない、まちがいだらけの詩があったんですよ。《きょうは、おかあさんは、びょうきでこれない》ってことを書いてんだけど、《びょうき》が書けなくて、《びわき》って書いたりとかして、すごい好きで、わたしがそれを好きなんだってことを作文に書いて、先生に見せたら、先生、わたしが字をまちがえてると思って書き直されて(笑)。「ちがいます、合ってます。これ原文なんです」(笑)。

ああ。《ママ》って書かなきゃ。

そうそう! 《原文ママ》って、あのとき、その言葉を知ってれば直されないですんだのに。そういうことがあったから、今でもすっごいおぼえてるの。で、それがずっとあって、小学校四年のときに教科書にジャン・コクトーの詩が載ってて。それが、もうめちゃめちゃかっこよくて。もう、あれで世界が変わった。たぶん、あれのせいなんですけど、こんなことになったのはっていう感じ。

すごいね、ちゃんと正しく出会ってる。

言葉と出会ったという感じ?

そういう感じですね。三行しかないのに、こんなにかっこいい……。『シャボン玉』っていう詩で、「シャボン玉の中へは/庭ははいれません/まわりをくるくる回っています」っていう、それだけの詩。庭の方が、まわりを回ってるっていうね。今まではシャボン玉の方が回ってて、庭は動かないって思ってたけど、え、庭が動くんだと思って。

なるほど。

それがすごい衝撃的で、すっごいそれも先生にいったし(笑)。先生にしつこく。

まず先生にいってみるんだ(笑)。

学級委員だったんで(笑)。「めっちゃすごいねん」って。もう、これはすごい詩なんだ、ということを必死でいったおぼえがあるんですけど(笑)。

柴崎さんが今、暗唱したように、詩ってがんばればおぼえることができる。作品をまるごと記憶できるというのはおもしろいですね。

うん。

小説はだいたいできないね。たった一節、ワンフレーズですら、「たしかさあ」、みたいになる。

読み返したら、ちがってたりとかね。

いってた人物がちがうとか。

あれ? 全然ちがう、とか思ったりして。
小説は冒頭から書くの?

冒頭から書く。

そうなんだ。

え、真ん中から書きます?

長いのはそうだよ。冒頭から思いついてるものは冒頭から書くけど。

真ん中から思いついたら、真ん中から書くんですか?

そうそう。

えーっ!? それはすごいびっくりした、わたし(笑)。最初から書くものだと。

その時点で、真ん中ってのは、わかるんですか?

いや、どのへんかもわかんない。

何か途中ってことですよね?

でもね、だいたい前半みたい。終盤であることはないな。でもそれが冒頭であるって確信は、あんまりないんだよね。

じゃあ、冒頭だと思わずに書いたものが、そのまま冒頭になることも?

そういうこともある。あと、飛び石のように、この後、どうなっていくかは知らないけど、この人たちはここに行って、こういう会話をするということを思いついたら、その会話だけ書いちゃう。

あ、会話だけ先に書くのは、わたしもやる。

でもその会話にいたるまでの、彼らがどんなふうにこの場面に来たのかっていうのは、それが浮かぶまでずっと待ってる。穴空き状態。人物の名前とかも全部、《#》とかさ《$》とか、記号をつけてほうってあるわけ。

うん、いってましたよねえ、前に。

柴崎さんは、名前っていうの、最初から決まってるんですか?

決まってる人もいるし、なかなか決まらない人もいて、途中までずっと仮の名前で書いているときがあります。仮の名前はもう決まったものがあるんです。好きなマンガからとってるんだけど、そのマンガに出てくる名前が好きだから、いつもその名前(笑)。

それをつけてるんだ。

全部仮の名前でいくと、あんまり種類がないので、みんな同じ名前になる(笑)。

思い入れが名前にあって、ちょっと似た性格になったり、とかいうことはないの?

ない。ほんとに名前だけ。登場人物ってことで思ってるのは、手塚治虫とかね、キャラクターの使い回しっていうか、ちがう作品に出てくる……《スターシステム》ですか? 《スターシステム》したいなあって(笑)。キャラクターとかね、一生のうちにね、そんないっぱい考えられないから。

ああ、そうだよね。せっかくいきいき書けるキャラクターなのに一作だけか、みたいなね。

そうそう。わりと長期にわたって連載するマンガとちがってね、小説は比較的短いからもったいないっていうのもあるし。

そうだよね。

「この人、もう一回出てきても」とか、書いてるうちにワキ役の人とかを、「この人、別のことで使えそう」、とか。

ああ。それは、《スターシステム》っていったけど、《サーガ》っていうのもある。同じ世界、地続きの世界がどこまでものびて、別の物語で中核だった人が今度はワキ役で登場するとかね。

《グラース家サーガ》みたいにね。

サーガではないんだけど、とくに『ショートカット』は四つの話があるんだけど、それは全部つながってて同じ世界にある。別々の話なんだけど、いちおう同じ人が出てくるっていうかたちでつないでて、同じ地図上で展開してるの。同じ日だし。こう街の地図があって、ここでこの話、ここであの話が展開してることになってて。

あ、そうなんだ? 柴崎さんの著作は、じつは全部つながってんの?

うん、全然大丈夫。基本的な世界観としては同じ。同じ世界上で展開しているっていうふうにわたしは思っているので、この話のこの人と、この話のこの人が、何年後かに別のところで知り合うっていうのも、全然OK。ちゃんと、年代とか場所とかも設定してある。

あるんだ? 年表が書けるんだ。

書ける。何年に何歳で、って。で、けっこう、小説のなかの日付が細かく決まってるから、何年の何月何日の出来事って、わたしのなかできっちりあって。

そうやって構築してるんだ。じゃあ後世の研究家はそれをとらえとかないと。

地図とか作れると思う、後世の研究家は(笑)。

大島弓子の描く、全部名前もちがうし、そのつどそのつど、外見も、年齢も、立場もちがうんだけど、あの難解そうな困らせる女の子っていう(笑)、そういった、キャラクターというところまでは際立たせない、トーンをつくることは、ぼくにもできる。でも、それをずっとやると自分が飽きていったり、モチベーションが落ちていったりして、書く世界が疲弊してくるような気がするんだよね。そうすると、自分にない、無理して時代劇とかね(笑)、無理してSFみたいなところで、いきいきとした、ヒゲ親父とかランプとか、キャラクターとして立っているものを投入していく、みたいなさ。

うん。

『火の鳥』(朝日ソノラマ、その他刊)ってのは、そういう力技のような気がするけどね。未来、過去、未来、過去、みたいにさ、一生懸命、反復させてくんだよね。

うんうん。

だから、トーンみたいなものが得意技のように地で出せるってのは、自負としてあるんだけれども、それに対して自分で自分のトーンに飽きちゃったらどうするよ、といったことを漠然とは思ってるね。時代劇はやんないと思うけどさ。

まだSFの方が可能性ありますね。あんまりね、三〇年ぐらい経っても、変わらないような気がするんですよ。『ブレードランナー』も作ったときの設定の年ってもう、とっくに追い越しちゃってるし。

うん、そうだね。

だから、昔は三〇年後ってああなると思ってたけど、全然ああなってないから、たぶん、今から三〇年経ってもそんなに変わらないと思う。そんなに変わらない三〇年後、みたいなのが書きたいなあって、SFで。細かいとこだけ、ちょっとちがうのね。

なるほど。

全体的には一緒。やってることは変わらなくて、でもどっかだけ、何かちがうみたいな。ふつうにスーパー行って、買いものして、今日ご飯、何を食べようってところは、きっと変わらないと思うから。そういう感じのSF、微妙なSFを書きたい(笑)。わたし、漫画の原作をやったことがあって(『大阪芸術大学河南文藝 漫画篇 '04初夏号』大阪芸術大学刊)、絵を他の人が描いて、それで、二〇二四年の京都っていうのをやったんですけど、お寺をめぐってるだけなんですよ。お寺は絶対変わらないじゃないですか。お寺のなかは(笑)。

うん。

だからSFっぽい話も出てこないんだけど、バスだけなんか未来っぽいっていう(笑)。SF映画とかを見ると、なんかすっごいね、暗〜い感じで管理社会になってて、いつもそうなんだけど、そうはならないと思う。ああいうの見てたら、「や、でも、アマゾンの人には関係ないで」とか思う(笑)。今でもアマゾンの人でも、どんな山奥の人も、ナイキ(のバッタ物?)は着てる、そっちの方の感じを、SFで書きたいなあっていう興味がある。そういうかたちでの行き渡り方とかに興味があります。
ぼく、八〇年代、パソコン少年だったんだけど、ホビーパソコンっていう、簡単なプログラムが打てる、ゲームができるくらいで、あとはたいした性能のない、なんにもできないようなさ、そういうのを見てると、当時のパソコンってメモリが六四KBなんだよ。六四KBってたぶん、ワープロの文章で、原稿用紙一〇何枚とか、もっと少ないくらいかもしれない。それが、気がついたら、今、同じ大きさのままで、パソコンは、何一〇GBってなってる。そのときに思ったのは「今が未来なんだ」ってこと。

うんうん。

だから、今の、現在の一九歳を書くときに、「携帯電話、あれは書かなきゃいかんな」って。

うん。だってみんな持ってるしっていう。

でも、主人公が《メールを打った》って、たった一文を書くのがね、恥ずかしくってさ(笑)。自分の青春、いわゆる学生だった八九年、九〇年を舞台にするか、あくまでも今、現在を舞台にするかっていうことで、現代性に自分が向かっていくべきという意味において、どうしても現代にしたいのに、携帯電話があるせいで、ひるむんだよね。

うん。

で、九〇年代前半を舞台にすると携帯を書かなくていいんだけど、そうするとノスタルジーの学園小説になっちゃう。

ああ、そうそう、わかる、すごいわかる。

八〇年代に七〇年代の青春小説を読むときには、そんなに違和感はなかったと思う。ただギターがエレキっていわれてたとかさ、そんぐらいの差だったんだけど、携帯電話の登場の以前と以後で、一九歳とか一八歳とかの行動とか考え方とかは、激変したはずだから。それ以前の、八〇年代の学園小説を書くってことにね、何か書けたとしても、学園小説じゃないものにすらなってしまうんじゃないか。ちょっと前までは、「じゃあ、メールするね」っていう言葉をぼかして書いてもよかったはずだったんだよ。でも今は携帯を出さないことで、いつなんだこれっていうさ。トレンディドラマとかいわれてた頃の、九〇年代前半のものを見ると、「なぜキムタクは携帯をかけないんだ」みたいなさ(笑)。それでねえ、今、半ば自分から切り出して学園小説書くって決めちゃったんだけど、それを(携帯電話をどう描くかを)決めるまで続きが書けないんだよね。

うんうん。

ほんの数年の、そこの差は案外、大きいことでさ。それですごく困ってる(笑)。

それは、すっごいよくわかる。わたしも高校生の話を書こうかなと思うんだけど、でもどうしてもノスタルジーみたいなのになるのがいやだから、じゃあ今の状態を書く、と思うけど、想像がつかないところがやっぱりあって。高校に行ってて携帯があるってどういう感じかなっていうのが、なかなか想像がつかない。じゃあどうする、っていう……。

そうだ、こないだ、柴崎さんの『青空感傷ツアー』で、携帯電話を折り畳む音がね、すごくいい擬音だったんだけど、あれなんだったっけ? 《コクン》じゃないし、《パクン》じゃないし……。

《ぱくっ》。

《ぱくっと》。そうだ!

そう(笑)。

そうだ、《ぱくっと閉じた。》だ! その実感がさあ、実際にグリップをつかまないと書いちゃいけないような気がするんだよね。

うんうん。

みんなが携帯電話を開いて、電車のなかでも大勢がやってるからって、自分で開いたときの実感みたいなものを会得しないと、書いちゃダメみたいなさ。取材とかとちがう、何か、ね。でもあの《ぱくっと》っていうのは、ぼくもそう思ったって意味じゃなくて、作中人物の実感として、《ぱくっと》閉じたんだよね、っていうのがわかったの。

なるほど。

美内すずえの『ガラスの仮面』(白泉社刊)、六年ぶりに出た最新巻で、桜小路優くんが携帯もっててさ、美内すずえはあくまでもあの劇は現代が舞台ってことにしたいらしくって、だから、桜小路くん、つねに携帯をもっている。で、待ち受け画面がマヤちゃん(笑)。

えーっ!? ……なんでそんなことするんだろう……(笑)。だって、ゆがんでるじゃないですか、時空が。

そうなんだよね。あのとき、なんで予選であの女の子は『失恋レストラン』を歌ったんだろうとか、速水真澄はどうしてあのとき、携帯で助けを求めなかったんだ、とか(笑)。でも、それは別の意味で感動したんだけどね。あ、美内すずえは力技で……。

現代なんだといいはるんだ、って(笑)。でも、やっぱり自分が実感してるもんじゃないと、今の若い子はこんなの使ってるらしいから、ということで書くと、そこだけ浮くっていうか。

なるよね。

実感してるから書くんじゃなくて、これが新しいから書くっていう書き方をすると、あっというまに、それはものすごく古くなる。

だから携帯電話、すごい手をこまねいてるんですよ、書くとき。
長嶋さんは、自分で自分がやっていることを、作品のなかでも、外でも、説明しているような気がする。他方、柴崎さんはさらに大胆に、説明せずに、そのままホイッてほうってる、そうな印象を受けるね。

うーん、そうだね。

長嶋さんは設定っていうのを、自分のなかに批評的に、作品ごとにかなり分けてる気がするから、読み比べるとわかっちゃう。一冊だけ読んだってわかんないけど、他の作品と読み比べると、長嶋有の戦略がわかる。物語そのものを描きながら別のこともこういっていた、というぐあいに。

うん。

補足するような言動が、実際多いしなあ(笑)。全部、芸みたいな感じで書いてるのもあるんだよ。別にアクロバティックなこと、全然やってないんだけどね。でも、だれもやらなかったでしょ、みたいなさ、ちょっとした自負、得意気な顔みたいなのが混じるときがあって。このポジションどりはなかったでしょ、とか、そういうのは、わりとある。

うんうん。

柴崎さんは、ぼくが今いったようなことに対して、「ふ〜ん」って感じで聞いてるだけってのが、柴崎さんらしい(笑)。

けっこうね、なんでも受け入れちゃう。「そういわれたらそうかなあ?」みたいな感じ(笑)。

そうそう、そういう感じがあるよ(笑)。

いっつもそうなんですよ。

「わが意を得たり!」っていう感じのレスポンスじゃないんだよ(笑)。

(笑)。

ぼくは、保坂さんの『小説の自由』(新潮社刊)のなかの『フルタイムライフ』の評の、《時間を書いてるんだ》という指摘は、「あ、そうだった、そうだった」って思った。だからすごくクレバーな評だと思ったけど、本人はそれもまた「そうかも」っていう(笑)。

そうそう(笑)。いっつもそんな感じなんですよ。「あ、そういうふうに思うのか」、「そういうんだったら、そうか」、「うまいこというな」って(笑)。

すごいね、天才少女みたいだね(笑)。

いやいや、そんなことはないんですけど。自分なりに考えてやってるんだけれども、あんまり、自分自身に対しても、うまく説明できなくて、こんな感じ、って思いながらやってるんです。その、こんな感じ、を、保坂さんみたいに、論理的に説明することが全然できなくて。でも、自分でもそれが、単なるカンとかっていうわけでもなくって、自分のなかではちゃんと、こうこうこうで、こうなってるってあるんだけれども、それをああいうふうに説明できないから、人がそう説明してるのを聞くと、「へ〜」ってなる(笑)。

そのね、感心してる感じは、伝わってくる(笑)。

《時間が書けてる》、みたいなのも、そういわれたら、自分でしたいと思ってたことは、合ってたんだ、みたいなのはあって。あの小説、『フルタイムライフ』を書くときに、一〇回の月刊連載っていうのは決まってたから、一年の話にしよう、と。アメリカの病院ドラマの『ER』って大好きで、あれって、話が途切れるんですよ。先週と続いてる部分もあるんだけど、先週の患者さんとか、もう出てこない。

劇的なほど劇的な、秒きざみで患者が担ぎ込まれてきて、全員が死と直面した、あるいは死を看取るとかさ、ドラマというドラマが、インディ・ジョーンズ並みに訪れる……(笑)。一話完結ふうでもあるんだよね。

うん。でもけっこうほったらかしで、「先週、死にかけだった人、どうなったんだろう?」って思うんだけど、もう出てこなくて(笑)。ほったらかしのまま、ざくざく進んでいく。で、あれはたぶん、一回の話で一日のなかなんですよ。あんまり一回で、何日も経つことはなくて、次の回になったら、説明が全然ないんだけど、一ケ月ぐらい経ってるときがある。あいだがすごく途切れてる。で、連載は今までしたことがないけど、テレビが大好きでドラマが好きだから、連ドラだと思って、「ああ、それをやりたいなあ」、と。

『ER』を見て、そこを、ってのが、柴崎さんですね。つまりさ、だれも『ER』から着想を得て『フルタイムライフ』を作ったって思えないぐらいちがうんだよね。

うん、全然ちがう。『フルタイムライフ』は事件は起こらないから(笑)。

でもリアルってことにおいては、共通してるんだよ、たぶん。

一行空きとか、場面転換みたいなところが好きなんです。場面転換をいかにあざやかにやるかってことを、けっこう好きでやってるかもしれない。わたしの場合は映画にたとえるとわかりやすいんだけど、パッて暗くなって、エンドロールが出る瞬間、その瞬間がすごく好きなんで、そういう感じに最後はしたいなあって。

そういうのが好きっていうのは、そういう段取りやリズムが好きなんだね。

かっこいいのがやりたい。映画でも音楽でも、かっこいいなあって思ったら、小説でそれをやりたい。単純なの(笑)。

それはすごく腑に落ちる。

(笑)。
本って必ずしも全部読まない。ふしぎな表現形式だよね。

絵は全部見ちゃうものね。

うん。半分しか今日は見ないとかって、できないし。

同じ時間的な表現形式、音楽でも、途中で止めるとか、あんまりないし。

ないよね。

うん、いちおう最後まで聞くなあ、と。

レコードだったら、途中までで針を上げるとか、あんまし……。

ない(笑)。本は、すぐやめちゃうからね。あれがふしぎ。

「積ん読」って言葉もあるくらいだしなあ。

そうそう。

でもそれって悪いっていう印象があって、実際推奨することではないかもしれないけど、悪いことでもないよね。

ない。

そうだね。仕切り直しみたいに、二回目の立会いで挑んだら読めた、みたいなこともあるんだよ。

前は全然読めなかったのにっていうのも、けっこうある。

長嶋さんって、相撲のたとえ、多いですよね(笑)。

そうなんだよ(笑)。やってたわけじゃないんだけど、相撲のたとえがやたら出てねえ(笑)。女性に相撲のたとえをすると嫌われるっていわれた。

わたしは別に大丈夫ですよ(笑)。

「くるぶしを捻挫した」とか聞くと、「曙も同じところで苦しんだんだよ」といってしまう(笑)。

相撲がずっとがっぷり四つに組んでいることはないように、小説も終わるでしょう。小説の最後の一行って、最後の一行じゃなくてもいいけど、「読み終わる」。さっき真ん中から書くという、ふしぎな言葉が出たけど、書き手からいうと、小説の終わりは、それはどのへんで決まるんだろう?

それはいまだにわかんない、ぼくは。なんとなく借りもののイメージの、小説っぽい終わりっていうのに、わりとよっかかっちゃうことがある。布の端がほつれてるから、「じゃあ、こう、かがっとくか」みたいなさ。かがっとくか、ぐらいの終わりであって、本当に芸術みたいな意味でいったら、そのかがりはいらないってすら思うの。

うん。

でもかがっといても、別にそんなに、悪いもんでもない、ぐらいの理由でかがってあるようなオチばっかり。いつも、終わるってどうしたらいいって思う。書きたいことが終わったときが、まあ、だいたい、終わるって感じなの。

話の流れ的な意味での終わりは、ふつうにいうと中途半端なところで終わってもいいんだけど、最後の一文だけはかっこよくしたくなっちゃうんですよね(笑)。音楽でいうと「ジャン!」ていうの入れたいなあ、みたいな感じ。フェイドアウトにはしたくないですよね。

柴崎さん、複数の短編が一冊のなかでひとつの流れをもつというときに、一編の短編の終わりは次の短編の場面転換の役割を果たしたりする?

うーん、あんまりそこまで考えたことはない。

映画監督に「このカットをこれだけ撮った理由は?」、「ここで暗転するのはなぜ?」みたいな質問だね、それ。

なんか今ね、もしかしたら、最後がおもしろいとか、あんまりしない方がいいのかなって思う。

小説は途中でやめられちゃうから?

そうそう。読んでいる途中が面白いから。「最後まで読めばおもしろいんです」っていうのは、あんまり通用しないなとかって思ったりする。

柴崎さんも、長嶋さんも、どんでん返しってあんまりないですね。

うん、ない(笑)

ないない。あ、でもアンソロジー(前出『東京 19歳の物語』)では、「どんでん返しを入れて下さい」っていわれた。あのね、そのアンソロジーってテーマがあるんだよね。あれは、東京が舞台で、主人公が一九歳で、最後にどんでん返しがくる、ということなんだけど、ぼくは、とりあえず携帯をもたせて、それであとは、本当にこいつ一九歳か疑わしい、みたいのを書いた(「山根と六郎」)。東京が舞台で、一九歳でってテーマを聞いたら、もう冒頭の一行目がさあ、《おれ、なにがし、一九歳》っていう一行目しか浮かばなかった(笑)。

一行で半分クリアしてる。

そうそう。《おれ、山根、一九歳》。

《東京、きた。》(笑)。

(爆笑)。

ねえ、それ以外どうしようもない。あれは難しいですよ、お題が。

「どんでん返しにするわけは?」って編集者に聞いたら、「アンソロジーで、各編がこれくらいの短さだと、淡々とした話を多くもらうことになるから」って。だから、途中で気づいたのかもしんないよね。あのアンソロジーのうちの、初出が古い人のは、どんでん返しがないのかもしれない。

わたし何回目だったかな? わたしのときは(「天気予報によると」)、すでにあった。

もう、どんでん返してくれって?

そうそう。まだ最初の方、四回目くらいか。どんでん返しっていうか……、意外なラストをっていわれて。

全然、ぼくのは意外じゃないんだけどさ。

それって、どんでん返そうと思えば、どんでん返せるものなの?

返せなかったね、うん。ぼくはとくに今回、手書きで初めて書いたので。

そうだったんですか。

登場人物に、右手に何かもたせたまま、一〇行ぐらい書いちゃって、あ、やっぱ左の方がよかったな、みたいに思っても書き直すのが面倒だから、左手にもたせてたときにできたであろう展開を全部捨てていくの。書いたものを直すのがすごく面倒くさいんだよ、手書きだと。だから、その意味で無数に選べる選択肢みたいなものが、全然無数になってかない。で、動力がなるべく萎える前に辿り着きたくなって終わり(笑)。そうすると、どんでん返しなんてことは、到底できないような気がして。

うん。

その選択肢が無数にあるってのは、長編をワープロで書いたときに、いつまでも書いていられるみたいなことで、まず樹型図のようなものをまず思い浮かべるけど、ワープロだと全部を戻れるんだよ。このエピソードをこっちにしよう、みたいな。

うん、うん。

その選べる可能性の無限性っていうのは、図にできなくなる。「こっちのエピソード、後だな」とやっていくと、いつまでも終われないの。でも手で書くと、いろんなことをあきらめちゃうから。すごい悪いことのようだけども、まあ、かたちにはなっていきやすいような気がする。

最初っから意図しないと、できないですよね、どんでん返しって。最初から嘘つかないとできないから。やっぱ、そのへんが難しいとこだと。どんでん返しでひっくり返すところを大きくするために、最初をこういう展開にするとかいう感じになるから難しい。そういう思考回路じゃないのかなあと。

どんでん返しっていう単語がさあ、強いんだよ。

うん。

だって、こう、天知茂が、メリメリメリッて顔の変装をはがすぐらいのが、どんでん返しだもん(笑)。

相撲の技にもないし。

ないねえ(笑)。

「ただいまの決まり手は……」(笑)。

「どんでん返し」(笑)。

八〇年代は八〇年代で、今のぼくらと同い年くらいの作家がいたわけだね、あたりまえだけど。そして、一〇代のぼくらは、そういった作家の作品に、接してきたのでもある。ぼくは八〇年代にデビューした作家の、何人か、当時の活躍も今の活動も、大好きだけど、気になるのは、たくさんしゃべってたくせにさ、たくさんの言葉を書いてたくせに、肝心なところ、さっさと終えちゃった気がする。その速さが上の世代を意識したものだというのは、わかるんだけど、早熟なのは、魅力なんだけど……。

そうね。それで(自分たちと)同じように顰蹙を買うべきだみたいに、いわれるとさ……。

対談? 顰蹙対談?(編集部注 対談「『顰蹙』こそ文学」[山田詠美、高橋源一郎]『群像』二〇〇五年一月号、鼎談「顰蹙(文学)の力」[島田雅彦、山田詠美、高橋源一郎]同四月号)

たぶんその曲芸のようなことで荒らしていったときに、より上の世代に顰蹙を買ったんだろうね。

うん。

そのことをふまえて、今、覇気がない、もやしっ子みたいなさ(笑)、作風の人が、みたいなさ。でもぼく、あの言葉を聞いたときに、ある種の安心感、つまりより上の世代に顰蹙を買ったという図式からいうと、もう同じように、もうなってると思ったよ。


ああ、もう買ってるんだ(笑)。「最近の子は顰蹙を買ってない」っていう顰蹙を買ってるわけだ(笑)。

ほんとだね。

なんか逆説的に……、逆説じゃないな。なんか、とにかく、ある意味では、それで、じゃいいんじゃないの、と思う。

そう、それはわたしも思ったし、そういう書き方をしたいなあっていうのは、そういうね、反抗するっていうことで顰蹙を買うっていうのはね、前の、だいぶ前のことだから。


ああ。

そうだよね。

わたしの「ああ、そういうんだったら、それは、そうかも」みたいなのをね、きっと腹が立つ人はいっぱいいるだろうなって思って(笑)。

うんうん。

わたし逆に、そういうことを言ったらムカつかれるんじゃないかな、と思いながら言ってるところもある(笑)。ひねくれてるのかな。

ああ、それはすごくよくわかる。うん。

うん。

早熟なお兄さんとかお姉さんがたくさんしゃべって、柴崎さんが「それはそうですね」って一言で片づける(笑)。

やだろうな、みたいなね(笑)。

でも効率がいいのは、こっちなんだよ。嘘じゃないし、皮肉でいうのでもないでしょう。

だってほんとにそう思うしなあ。「そういう考えもあんねや」、みたいなね(笑)。

でもね、顰蹙を買うべきだっていうのが、その時代にそういうふうに出てきた人の、本音と自負と苛立ちみたいなものとして……、つまり逆のポジションに自分がいたらって考えると、それはそれですごくわかるんだよね。

うん。

だから真っ当に現役感があるじゃないですか。八〇歳くらいまで、みんなこう、下の世代に対して、すごい負けまいっていうかね。自分が現役であるっていう感じを、捨ててないし、現役であるっていう。それはもう、顰蹙を買うべきだっていう発言からも、「あ、現役だ!」みたいなさ。

うん、たしかに。

それに応接していく、応じていく姿勢っていうのが、ぼくらの場合、「そうですね」っていう返し方(笑)。

うん、ほんとそう。だって「えらいなあ」みたいな感じなんだよ。嫌味じゃなくて。

うん。そうなんだよ、それはよくわかるんだよ。でも、それは柴崎さんの、ほんと、皮肉ではないところ、本当なんだってところに、かえって、不穏さが宿るというかね。

作品にもそういう感じはあるよね。なんか不穏さがある。

うん、そう、不穏な感じはずっと書きたいと思ってて。あ、けど、そういう例でわかりやすいとこでいえば、『きょうのできごと』で、二人どうでもいい人がいて、《緑》と《黒》って呼んでて、本当にどうでもいいっていう(笑)。

すごい変に髪切られちゃうんだよな、たしか。

そうそう。

一方では男前と書かれる登場人物もいて。

そうそう、男前の子には、なんかねえ、優しく髪切ってんのよねえ。《黒》と《緑》って、どうでもいい、本当にどうでもいいんですよ、あの語ってる子にとっては。

話者じゃなくて、作者もね(笑)。

作者は、まあもうちょっと愛情があるけど(笑)。まあ、あの女の子にしてみれば、たぶん、次の日になっても区別ついてなくて、「え、そんな人いたっけ?」みたいな感じで、どうでもいい(笑)。

でもね、それがどうでもいいっていう排他的なふうに見えない仕組みがあって、つまりあの語り手の女の子、すごい酔ってんだよね。

そうそう。

だから読む側は、「これは酔ってるせいで、面食いな面が特別に出てるだけかな?」っていう留保があるんだよ。

やっぱ語り手、ちょっとおかしいよね。

おかしい(笑)。

柴崎さんの小説のなかの、このことは語って、このことは語らないっていう、恣意的に選ばれて目に入ってるものって、絶妙によくてさ。田舎の民宿の事務室へ行ったら、みょうに重そうな灰皿がある、みたいな(笑)。

ああ。

重そうな灰皿のことは、ほかの作家も書くかもしんないんだけど、その作家はきっと、もっと他のものも書いちゃうんだけど、柴崎さんは、重そうな灰皿とあと二点ぐらい(笑)。

(笑)。

それでいながら、ちゃんと事務室になる、みたいなね。

うんうん。

その選んであるものがまず正解だし、書かなくていいものも正解、と思わせるような、感じっていうのは、舌を巻くぐらい、あるよ。

最初からそれが意図的だっていう気がするのは、題名が色の名前だったりする。

だから、Amazonのさあ、読者レビューで柴崎作品に《で、だから?》って書いてる人がいてさ。つまり、読んだ後で、「で、だから?」っていう気にさせる。《で、だから?》っていわれたのは、成功してる(笑)。

そう、成功してるんだよね(笑)。それでいいの。

うん。ある人のある角度から見たときには、《で、だから?》っていうものに見えてないと、別の角度から見た人にすごくかがやくものにならないっていうかさ。でもいちおう、体(てい)として、『フルタイムライフ』でも、一〇ケ月とか、『ER』みたいな、最後の方で失恋した主人公が新たな恋を見つけそうみたいな、最低限の体(てい)はあるんだよね。

そう、ある。いちおう(笑)。


そうすると、女性誌に載ったときに《傷ついたOLの》とか、《仕事に恋にがんばる》とか書かれる。

《新しい恋を見つけるまでの一〇ケ月》みたいな感じでね(笑)。

一〇行でいうならこんな粗筋、みたいなところに応え得る、最低限の体(てい)は用意してある。それがないと、《で、だから?》が増える。

なるほど。

ほんとは、だから今は、粗筋が書けない話を書きたい。

そう! それを書きたいんじゃないかって思ってた。最後に、新たな恋を見つけそうになるのは、邪魔じゃないし、あってもいいとは思うんだけど、なかったらもっとすごい。ぼくもそうなんだよ。何か……。なんというか、現状、値段がついて本が流通する仕組みのなかで、体(てい)があってもしょうがないみたいなさ(笑)。つまり、体(てい)がなくても、ない瞬間に、正しい言葉でいってくれる人がほんとに現れるかっていうノノ。あ、でも、この「山根と六郎」は、かなり体(てい)がない(笑)。

うんうん! なかった。この話、すごいよかった。おもしろかった。

「じゃあね」っていう言葉は、子供も「じゃあね」っていうし、高校生も「じゃあね」っていうし、すごくこわい、肩がぶつかったら殴られそうな人も、「じゃあなー」みたいに、みんな「じゃあねー」とか「じゃあなー」とかいうんだっていう話なんですよ。

要約だと、まったくわかんないけど、それはいいね(笑)。

これ粗筋書けないよね。

うん、書けない。粗筋は、きっと、本編と変わらない長さ(笑)。

2005/07/28 大阪にて

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