log osaka web magazine index
昨年のトヨタ・コレオグラフィー・アワード受賞を皮切りに、コンテンポラリー・ダンスの振付家として、国内での評価と世界への切符を、正当にも手にした東野祥子。だが、このジャンル内での評価とともに得た道筋は、東野さんが踊りながら切り開いてきた回路の一つにすぎない。作品タイトルによく用いられる’/(スラッシュ)’のように、東野さんはコンテンポラリー・ダンスと、どんなジャンル、場所、ひとの間に立ってきたのだろうか。
いつ頃から他のジャンルのアーティストと?

東野:昔は先生のところについて一ダンサーでやっていたんだけど、自分で踊りをつくってみたいと思ったときに、最初にDJの二人組とユニットを。

Baby-Qの前のERROR SYSTEMですね。

東野:そう。それが最初。すでに結構クラブでやったりしていて。それから。

当然、劇場とは客の構えが違いますよね。

東野:そうそう。ダンスがあるなんて全然知らないで来てはる人の目の前で踊り出すわけじゃないですか。だから結構厳しいですよ、状況としては。舞台でやると、みんな見にくるつもりで期待している。でもクラブの人たちは自分で楽しみに来ているのであって、見に来ているわけじゃないから。突然行われる何かが理解してもらえなかったり。

それも表現活動?

東野:そう。そういうところでもやることが私の中で大事というか、逆境に敢えて身を置くというか、修行しているというか。ほんま厳しいですね。でも「何、これ?」っていう興味を涌かしてから、絶対逃がさへん。すっごい集中して、その何十分かのお客さんとのコミュニケーションみたいなものを意識して。こっちから全開で出して見てもらう、見てもらえてると思う、今。

クラブで踊っていて、うまい人がいたら自然と目がゆく、っていうのとは違うレベルに連れてゆく。

東野:そう。日本人はみんなDJブース向いて踊るじゃないですか。そこには何にもないのに。わたしはその前に、DJとお客さんの間に立って、お客さんの方を向いて踊る。ステージがいちおうはあるときも、ないときもある。DJだけじゃなくて打ち込みの機材だけのときも。

踊る気で来ている人の体を、観る人の体に変えてしまう。

東野:もう、始まった瞬間に。

やったあ、っていう瞬間とかは?

東野:やったあっていうよりも、ミュージシャンとわたしと観客の間に、すごい一体感が生まれたときは、みんないい感想を言ってくれる。ミュージシャンと良かったねって言い合えるときは、お客さんも絶賛。そういうときかな。やり終えたときに何か引っかかっている部分があるとあまり良くなくて、全開でできたときっていうのは、初めて踊りを見ましたっていうお客さんでも、「何かわからへんけど、すっごい変で良かったです(笑)。」みたいな感想を言ってくれる。
ミュージシャンとは前もって準備を?

東野:ほとんどしないですね。最初と最後、全体で何分ぐらいとか、いつ出るとか。本当に最近いろんな人とやっているので…。きめきめでやったりはしないかな。即興だとかえって決めないほうが良かったりするんで。

幅広くいろんな人と。

東野:即興からバンドまで。バンドといっても、ギターとベースがいるけど即興で演奏を発展させていってるところとか。きめきめのところとはあんまり、やったことないかな。一回ここで名古屋のガイさんっていう人とやったときは、決まった楽曲だった気がするけど。結構即興の人が多いですね。

演奏による違いってあります?

東野:やっぱり決まった楽曲だと解りやすいというか、コード進行じゃないけど、前奏で始まって、みたいなしっかりした展開になっているので、解っちゃうからあまり面白くなかったり。想像できない、自分でどうなってるかわからへんほうが面白いですね。

身体表現が入ることに対する、ミュージシャンからの反応は?

東野:やっぱり感覚なんですよ。いい、悪い。最近はどんな音や間でも、自分なりに結構遊べるようになってきているな。お互い良かったなって言えることは多いですね。別々にやっているより、それ以上のものが、ぶつかってもう一段上がれる感じは、やっててありますし、常にめざしてます。

クラブでの活動は、煙巻ヨ−コとしてされているんですよね。東野祥子として作品を作るときとでは、音楽との関係は?

東野:気持ち的に全然違うんですよ。作り上げるほうがしんどくて、セッションは結構気楽。音を任せれるから。何を出されてもそれを感じて踊れるから。ミュージシャンもわたしの動きで、反応して出してくれたり。その場だけで成立するものだから全然気負いもなくて、耳を、感覚を全開にして体を使うっていうことをしているだけ。そこに自分の気持ちとかテンション、お客さんの集中力が入ってくる感じ。
作品づくりはそれ以前に、作品のコンセプト、見せたい部分、どういう踊りをしたいのか、どういう音の質、どういう空間を作るかみたいなことをすごい考えて話して、話し込む。その中で、このメロディーがどうしても気になるから消して欲しいとか、この間はどうしても5秒欲しいとか、緻密な作業をしていますね。この音は遠くのほうから上をぐーって効かしたいとか。懐かしい感じが欲しいとか。下からごーっとくる感じがいいとか。そういう風に方向、音の中の背景みたいなものをイメージできるように作っていこうとしているから、結構ヘビーなんですよね。

そこまで細かくこだわれるのは、東野さんの中で音がかなり具体的な体験、記憶と結びついてある?

東野:そうなんですよ。好きなんですよ音楽が。もちろん出してくるまでは任せてるんですよ。だいたいこういうコンセプト、イメージでっていう話だけしたら、豊田(Baby-Qで音楽を担当しているミュージシャン、豊田奈千甫)がある程度考えて作ってきてくれるので。それをベースに、二人でか、映像の子も加わって三人で聞いて、もうちょっと何かがあったほうがいいとか、もうちょっとこれはこんなトーンがいいとかっていう話を、音を作っていく段階ではかなりしますね。やっぱり踊りにくいのはあかんと思うしね。自分が納得できないと、いい踊りはできへんっていうのは自分の中であるから。

その踊りのよさっていうのは、劇場でのつくりこんだ音に支えられてできたものでも、さっき言ったクラブでの感覚と同じ?

東野:お客さんとの関係ではね。同じというか、もっと濃い。濃いというか、劇場のほうが距離はあるか。クラブってやっぱり近いじゃないですか。お客さんのこのへんまで行ったりできるけど、劇場ってだいぶ遠い。そこで伝えられると、お客さんの気持ちがぐっとこっちへ来る。面白くないときは、結構引いちゃったりするじゃないですか。でも面白かったら、わーって、こう、もっと見たいって、気持ちが前のめりになるから、そういう風にさせたいなあと思います。作っていくときは。
そういったレベルでのコミュニケーションを大事にしはるのと同時に、作品はかっちり作られますね。最近のコンテンポラリー・ダンスでは、作品も身体のつくりかたも日常の延長というものが多い中で。

東野:そういうの多いですよね。東京も多いですよ。こっちより多いかも。なんかこじゃれた感じの生活、カフェで見るような。作品も体も。すごく行為を面白く使っていたりとかするんだけど、それだけで終わっちゃってたり。コンテンポラリーっていうところで、内部ではいろいろやっているんだけど、ダンス的な要素、基準のようなものが変わってきている気がする。テクニックがすっごいださいという感じになってきているのではないか、と。

日常、等身大、即リアリティのように思われがちだけど、虚構のもつリアリティもある。コンテンポラリー・ダンスというフィールドは、等身大のヴァラエティが増えて水平に拡がってゆくけど、そこから垂直に突き抜けたものがない気がする。

東野:そうですね。いいものって言っちゃうとあれかも知れないけど、一定の水準を超えたものは、ほんまに少なくなったなあっていうか。

前は?

東野:いやー、なんだろうな。あたしが醒めてきたのかも知れないけど、全然感動しないんですよ。引っ越してから結構な数の舞台を見たんですけど。東京のダンサーたちの。でもなんか反応があんまりできないっていうか。昔見た、まあそれは必ずしも日本のダンスってわけでもなかったりするんですけど、昔見た勅使河原三郎の震えがくる感じとか、ピナ・バウシュを見て泣いちゃったりした感じとか、なんか感じられない。中にはあるんでしょうけどね、あんまり出会えない。
何をいいとするかっていう基準が、コンテンポラリーは、ほんま趣向の範囲。好き嫌いの話で、インスタレーションのようなものを、いいって言っている人もいるし、何かわからんことやってるよなあって終わる人もいるし。やりすぎると分かりやすすぎて面白くないとか、もう言いたい放題ですよ。で、それを批評家とかが操作していたりするっていう現状があると思いますよ。東京は。まあ関西もそうかも知れないけど。

関西は逆に、生活圏で見ることができるダンスが、あんまり言葉にされない。

東野:本当にそうですよね。それを言葉に換えている人が本当にいない。東京はそのへん、文章を書く人がいる。本気でダンスが好きで、絶対自分で見に行って、コメントを書いて記事にしたり、日記に書いたりする人がいますよね。やっぱりそれだけ本気に向き合っているんだっていう気はしますけどね。そこに趣向が入ってくるというか、操作されるというか、まあそれはどうしようもないことかも知れませんけれどね。そういうのが流行をつくったりするのは。

そういった情報がダンスへの入り口になる。

東野:みんなそうですよね。見たことない人がそういった記事をたよりにして見に行くわけだから。それで見て、へえ、これってこういうことなんやっていう基準が低かったら、コンテンポラリー・ダンスってこんなものなんや、で終わったりするわけですよね。

コンテンポラリー・ダンスは何でもありなものとして認められていることもある。

東野:まあなんでもありなんですけどね。実際。

でもそのなんでもありが意味あることとして語られたのは、多分10年くらい前とかに、そうではない状況があってのこと。

東野:そうですよね。なんらかのメソッドがあって。

踊れてないじゃない、って言える確たるダンスがあった。

東野:そういうものが基準としてありましたものね。今はそういう意味での踊りより、その人の雰囲気とか。いや雰囲気というより作り方みたいなのに、作った人の世界観が出ていればオッケーというところはあると思う。わたしのところも、実際ダンスできひん子とかいてて…。

カンパニーに?


東野:うん。でもできへんからだめっていう基準じゃなくて、存在自体がヘンで面白いからいいよ、みたいな基準があって。この動きはいい、みたいな。そういう子ってやっぱり人間が面白かったりするし。発想の仕方とかが。

そういううまいうまくないじゃないっていうのは、みんながわかった上で…。

東野:もちろん、みんなわかってる。

それでも舞台に上がっている身体を見たときに良し悪しがあるとしたら、ダンサーの在り方に責任を持って見ている人がいる、その人の目が人間としての存在を引き出せているときだと思う。

東野:それがちゃんと伝わればいいと思うんですよ。そこで納得してくれると嬉しいですよね。曖昧なまま終わられると。なんかこう、やっている本人の理論みたいなものがわかれば、別にダンスじゃなくても良かったって思えるんですけどね。作り手の意識の上でそこが抽象的というか曖昧になると、わかりにくくなってしまいすぎるというか。

お客さんがクエスチョンマークを持って帰ることに。

東野:それももちろんありなんですけど、持って帰って自分なりに理解してくれればいいと思うんだけど、そのクエスチョンの質による。わけわからんけど、すごい惹かれる部分があるというのがあればいいんですけれど、なんかこう、曖昧になりすぎて、もういいやってなるのは…考えるのとかもういいやって思っちゃったりすると…。そうやね、どうなんやろうね、もう趣向の話になってくるからね。ほんまにもう、ありすぎて、何がいいとか、何も、言えない。

一般的には言えないんだけど、一人一人の中ではあるはず。

東野:そうそう。一人一人が自分で選べばいいですよ。アートと一緒で。でもね、いいものは絶対いいはず。それは誰が見ても絶対いいと思うんですよ。そういう、自分なりの解釈でやけど、自分がこれは絶対いいって言えるものを作っていきたい。

それに近づけてゆくために何が必要?いろんなレベルで考えられると思うんですけれど、例えばコラボレーションの話でいったら、この人と一緒にやる基準って何?

東野:音楽家?

ジャンルごとでも、芸術家ということで括っても。例えば次にやろうとするときどんな人と?
東野:そうですね、いっぱいいますけどね。まあこれからきている人の話としては、灰野敬二さんとか。話はあるんですよ。一緒にやろうっていう。でもちゃんとやろうっていうのは、お互い忙しいっていうのがあって。

それはどっちから?

東野:それは灰野さんがカフェQでライブをやってくれはって、そこで映像があるんで見てくださいっていう話をして、実際送ったらすごいいいからやろうよって話になって。でもそれ以来ちょっとエネルギーが吸い取られるような感じやから(笑)、なかなか実現に向かっていなくて、そのうちやりますっていう感じ。
あと、ドラビデオって、ドラムの人で映像を使っている一楽儀光さんとかも、やろうねって。
それから猫ひろしっていうコメディアンとやろうって言っていて。それはこのあいだ「鴨ロック」っていう催しがあって、そのとき見てくれて面白いって言ってくれて、「僕の独演会が今度銀座であるからそれに出て。ネタくっとくから」みたいな。それで猫ひろしとやってみよう、と思って。

作品を見て、ダンサーとしての東野さんを見て、どっちが多い?

東野:どっちもですね。今度京都の造形大の舞台の音を出してくれる種子田郷さんは、批評家のひとの紹介があって、映像を見てすっごい気に入ってくれて。

作品を作る。

東野:エラー音を使っている人で、壊れたパソコンでファイルCDを取り込んで音にするっていう。音質フェチな感じのマニアで丁寧な音を作るんですけれど。フライヤー作ってから決まっちゃって。これね、自分らですっごいいいスピーカー入れるんですよ。
音楽家の方は音楽の文法というかロジックで作っているわけで、ダンサーはそれを聞かなすぎるという不満をよく聞きますが。

東野:それはねえ、そうなっちゃうみたい。ちょうどそういうワークショップをしていたからすごくわかる。踊っている人はどんどん自分の中に入っていっちゃって、そうすると音が全然からだに入っていかない。反応するだけが能じゃないんですけど、まず反応しましょうって言ってるところでも、見えないんですよ。全く聞いていない。自分で好き勝手やってるだけよ、そんなのって。

それが見える?

東野:見える見える。「そこ、音、体で聞け」って言った瞬間に全員変わってくる。ぱっと開く。がらりと変わる。で、またしばらくしたら、自分なりの法則みたいなものが支配的になって、勝手な癖ばっかりになってきて。でまたそこで「はい、耳閉じてる」って言ったら、ふあーと聞こえだして、そうするとまた変わる、みたいな。どうしてもそうなりやすい。集中していくと。

そういうかたちで音があると、体がイメージで閉じやすいことが見えるのかも知れないですね。作品ではもうダンスに合わせて切り貼りされちゃっているから、見えにくいのかも。

東野:作品では?そうかも。即興のときはそうなるといい踊りになれへんからね。音が聞こえてないと。

リズムがとれる云々というレベルじゃなしに。

東野:全然違う。別に音感がない、リズム音痴だからいい踊りができないというわけじゃないし。そのリズムがある、その中にまた自分のリズムというものがないと、いい踊りになれへん。例えばリズムがドン、ドン、ドン、ドンってあったら、それを自分でドン、ドドンド、ドドン、ドドンド、ドードみたいな。ちゃんと四つやねんけど、その中を自分で分節するというか。合わしてるだけだと全然つまんないんですよ。でもドンって一個の中には絶対自分でとれるポイントがたくさんあるはずで、それを自分で作っていくみたいな。そういうものを持っていないと、面白くはないと思う。

音と遊ぶ感じ?遊び方を知らない?

東野:うん、遊んだほうがいい。遊び方を知らないというより、ダンサーは音楽を聴いてない。聴きに行ってもない。あたしはそれをずーっと言ってるというか、感じているというか。クラブとかライブハウスとか、自分の好きな音楽をやっている人を聴きに行くわけじゃないですか。DJ然り。レコードかけてるだけやけど、かける人、そのかけ方によって全然違うように聞こえるし、ほんまにいいDJのときは面白いし。ライブもそう。ダンサーが本気で遊びに来てないと思う。だから音楽家とどうやって知り合ってんのって、よく聞かれるんですけど、別にそんなん遊びに行ってて、またやろうよみたいな。どんどんそんな話はすぐ決まるのに。見に行ってへんし、聴きに行ってへんし、どの人がどんな音楽やってるんか知らんから頼みようがないというか。ほんまに感動したら、「一緒にやりたい!」と思うからアプローチする。この人やったら楽しい踊りできそうって思ったらわたしも声かけるし、向こうも喜んでやろうやろうってやってくれるし、向こうのライブやるときも踊ってって言ってきてくれる。そうすることでどんどん見てもらえる機会も増えるし、人とやることで経験にもなる。

そういう回路を自分で持つことが、ダンサーとして生きていくことにつながったりするのに。

東野:もったいないですよ。ほんとに。ダンスなんかそんな崇高なもんじゃなくて、クラブとか行ったらみんな踊ってるやんって感じなんですけどね。もっと当たり前にあっていいのに。そんな敷居の高い、位の高いもんでは、ない。だから身近にありたい、いたい。劇場だけがステージじゃないっていうのは、みんなまあ知ってるだろうけど。
わたしはダンサーと、内輪だけでやってしまうみたいに、身内だけで終わりたくない。もっと広い世界でやりたい。観客を、ダンスを知らない人とか、巻き込んで行きたいと思う。それが劇場につながっていくことにもなるじゃないですか。それは昔からやっていること。実際、Baby -Qのお客さんって、そういう人多いですよ。「アイ・ホール来んの初めて。遠いわ〜。」みたいな人が結構来たり。そういう風なほうが未来はあるかな、と。ダンスに。

みなわかってはいるけどできない。

東野:でもダンスやるのに何が大事かって考えたら、音楽とかむっちゃ大事じゃないですか。あと場所と。そういうのをもっと丁寧に扱いなさいって感じ。そんな簡単にCD選んできてポチっとボタンを押してとか、やったらあかんでって言う。それは使いたい曲があるのはわかるし、作るのも大変だから、わたしもサンプリングしてきたりとかはしますが。そればっかりでよう一時間構成できんな、みたいな。

敷居がないかのように人とつながれる東野さん。敢えて、この人とはやりたくないという基準は?

東野:したくない?音楽?ダンス?うーん、音楽は…あまりないですね。自分が面白いと思える人とはできるけど…。具体的に?エックスジャパンとかはやりたくないな(笑)。ああいうヘビメタとかで、一時間やれって言われたら死ぬなあ。一曲くらいはできますけど。音楽はそんなないんですけれど。ダンスとかは…生理的に合うあえへんっていうのは…言っていいんですか?

いちおう選ばれている基準があるのでは、と。もちろんいい関係ばかりだったら無理な質問ですが。

東野:いやな場所には近づいてないからね。ダンスなんかでも、用意された場所で手っ取り早そうやけど、セッティングされてもしたくないことはしてない。
敷居を越えると言えば、10年前くらいにERROR SYSTEMを作られたのは、ちょうど関西で、今コンテンポラリーと呼ばれている流れが出てきている時期。コンテンポラリーは、一人の先生についてやるモダンとは環境が違う。離れたきっかけは?

東野:それはいやだったからですよ。現代舞踊協会というのがあって、そのまま行ってると、こてこてのモダン・ダンスの舞台とかに出されて。最初は何も知らないから先生につくのが面白くて行っていたんですけれど、自分が作りたいという欲が出てくると、窮屈になってくるじゃないですか。もっと違うことがやりたいのに、面白くないと思っていることをやっているのがいやで仕方なくて、それでやめますって。一人で作り出して、ERROR SYSTEMに。

すでにそのとき、DJさんたちとのつながりがあったってことですね。

東野:そのときというか昔から友達で。最初は依頼したんですよ。自分でレコード選んでこれDJでやってって。で、そのDJにも出演してちょっと踊ってもらったりとかして。

そのDJさんもですが、同じ頃にPretty Hate Machineに客演されたりとか、先日BRIDGEで一緒にされたHUMAN FLOWERとか、もちろん内橋和久さんとか、維新派を通過している人々、いわば大阪の地下文化水脈とのつながりは古い?

東野:そうそう。モダン・ダンスにいたころに、Pretty Hate Machineに出たんですよね。ERROR SYSTEMの一人の子が役者で。きっかけは忘れたけど友達つながりで。

音楽はそのころから重要だった。

17,8才の頃にモダン・ダンスの先生にコンクールに出なさいって言われて、選んだ曲も、めちゃめちゃインダストリアルのノイバウテン。それで服を破るとか、ぐおーってかきむしるような動きとか、その頃のモダンダンスでは結構タブーだったというか。けっこう綺麗なふわーっとした音楽に動きが多かったので、震えるような動きとかあんまりなくて。そこでわたしがやりたいというのを止めなかった先生も偉かったと思う。そこでやめなさいって、それは良くないわって言われたらアウトですけど。そこで伸ばしてくれたので。
当初から人形を出してますけど、人形と同じくらい自分のこと、生の人間のことを引いた視点から見ていますね。

東野:舞台に人形を持ち込むのが好きなんですよ。人形もロボットも同じようなものですよ。別の擬人化される何かがいて欲しい、なんか動いているものが欲しい、みたいな。自分、人間以外のもので。

よくある、人間をモノとして扱うのを人形を使って表現するのとは違う擬人化。

東野:わたしは人間機械論というか、考えようによっては、機械も人間になり得るっていう感覚がすごく好きで。わたしも機械になれるし機械もわたしになれるはず、という感覚がいつもあって、どうしても連れて行きたいんですね。舞台に。ロボットの子には「またぁ〜?」とかぶーぶー言われながら。また作ってやー、って。かなりおしどり夫婦みたいな感じで。(笑)

愛しいロボット。

東野:かっこよくないですよね。ダメでださい。ほんとにダメなんですよ。デスロボは。壊れるからはかなくていいんです。そういうところが好き。錆びてて壊れそうで、朽ちてゆくようなものがすごく好きなんです。

無機質なロボットというイメージとは逆ですね。このイメージの根底にある、ロボットは人間と一緒では困るという考えでいえば、舞台の上で生の人間と向き合うのと、ロボットと向き合うのでは構えが違うのでは。

東野:…まあ、繰り返しのこととかできなかったりとか、こっちが操作してやらなくてはならなかったりとかしますけど。でも、なんだろう。愛してますけどね。結構。舞台に上げるときは。ダンサーとやりとりしてもらってるし。今のシーンは、ひでおさんはロボットと会話する、とか。ケンカするシーン、とか。勝手に怒ってるシーン、とか。こないだの作品ALARM!では上手にずっといて、舞台で行われていることの傍観者なんですけれど。あれは現代社会の。
確かに映像の内容は社会性が強かった。

東野:小ちゃいモニターばっかりだし、いいかな、と。そんなに目に入らへんけど、ぱっとこっちを見たときに目に入ってくるならありかな、と。ショッキングなものでも。そのシーンのテーマをちゃんと映像にしているはず。そういうことを映像の子に話して、こういうことをしたい、と。向こうからもアイディアを出してもらって作った。映像の部分で、わかりやすく今の日本の状況とか伝えられるかなあ、と。結構安易ですけれど、そういうものが目に入ってもいいかなと思った。

映像で写し出されている社会、世界を見て理解するのと、その傍らで動いている身体を見て痛いと思うのは伝わり方が違う。

東野:社会で生きていて、こういうなんやかんやを感じながら生きているということがあって。それは感じてほしいし、創る側ではそういうことを考えてやってますっていうこと。捉え方はどうでもいいんですけれど、なんとなくそう気づいてくれたらいいなと思って。

具体的にこれに対して怒っていることとかある?

東野:そんな社会的な発言はできないんだけど、勉強とかしているわけじゃないし。でもでっかい意味で、戦争なんかなくなれへんけど、戦争をしている今、世の中っていうのを、日本で生きていると全く感じられないじゃないですか。全く!感じられない。こんなに裕福で、なんでもあって、ダンスとか見れて。こんな世の中があるっていうことは確かなんですよっていうことくらいを、知った上でやっていたいというところで。それのためにあたしはゴミ拾いができるわけじゃない。戦地に行って救助したりとか、日本の中にいてもできる何かとか、なんかわからんけど社会に対していいことをやるっていうよりは、ダンスしかでけへん自分でできることで、こういう社会ってどうなん、あたしらってこれでいいのん?ってことを踏まえて、作品にしていきたいって思っている。自分が社会に対してできることをダンスでやるには、やっぱそういう風なことを思った上でやっていきたいから。”ALARM!”も、気づいてよってことで。ほんま警告鳴りまくってんで、大丈夫?気づかんでいいの?っていうことを、自分なりの世の中へのスタンスとして。ほんともう地球も弱っているし、人いっぱい頭おかしくなってるし、どうしていくこれから?ってことを言い…言っていきたいって、作ったんです。すっごいでかいことを言ってるんですけどね。(笑)でもほんまにそれは思ってるんですよ。わたしにできることを考えたときに、やっぱりこれはダンスでやるしかないと。人間の生きていくことの尊さみたいなこと。そんな簡単に伝わるものではないと思うし。でも今日本の中で作っていくダンスで、わたしにできることを一生懸命考えている。

大阪から東京に引っ越したのは、そういう意味での世界へっていう?

東野:海外には行きたい。特にドイツ。まあなんか、いい方法があれば。やっぱりドイツの表現とか好きかも。別に日本人やし、日本でもうちょっとできるかなと思うし、大阪はめちゃめちゃ好きなんですよ。奈良も。でも、もう狭いんですよ。…なんかね、やりたいことをやってみて、もうこれ以上やっていてもあんまり変わらへんと思ったんですよね。毎年アイ・ホール公演をずっとやってても、それ以上の拡がりっていうのが、関西はあんまりないような気がする。いろんな劇場もあるけど、もうちょっと違うジャンルで違うお客さんに見て欲しいと思う。結構関西の知識層の人はわたしのダンスを見てくれてはるんじゃないかと思う。ある程度知ってくれてはると思う。もうちょっと違う人たちにも見て欲しい。やっぱり東京まで行くと観客層めちゃくちゃ多くて、場所も多くて、しんどいんですけど。
それで、大阪ならどこでやろうかとなったときに、セッションするにはBRIDGEしかない。でもここ(新世界アーツパーク)も、もうなくなってしまうんでしょう?BRIDGE以外もがんばってるのに。それはすごく悲しい。絶対になくしたら、ダメ。ここは。そのために何かするときは呼んでくださいね。

【公演情報】
Baby-Q Solo Dance “ERROR CORD/// pcshyoyplsh” 初演 2005年8月20日、21日@京都芸術劇場studio21
Baby-Q “ALARM!” 再演 2005年9月22日、23日@シアタートラム(東京都世田谷区)
HOME