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田名網 敬一(たなあみ けいいち)
1936年東京生まれ。武蔵野美術大学デザイン科卒業後、博報堂の制作部に勤めたが会社外の仕事が忙しく、1年で退社。その後、アニメーションや版画、イラストレーション、エディトリアル・デザインなど前衛的で遊びに満ちた様々な創作活動を行う。75年に日本版『PLAY BOY』誌の初代アートディレクターに就任する。デザイン分野で、日宣美「特選」などを受賞する一方、映像による実験制作を試み続け、作品はオーバーハウゼン、エディンバラなど世界各地の映画祭、映像展で上映された。91年より京都造形芸術大学教授に就任。現在は同大学情報デザイン学科・学科長を務める。2002年5月には「相原信洋vs田名網敬一の新作アニメーション・バトル」(京都造形芸術大学・映像ホール)、6月「田名網敬一ドローイング3000展」(ギャラリー360°)、アーティスト・ブック『AMIGOS』の出版、7月には「田名網敬一・金魚の潜む絶景展」(graf media gm・大阪)、さらにアニメーション作品を収録したDVD「TANAAMISM:映像の魔術師1975-2002」「TANAAMISM2:映像快楽主義1971-2002」がブロードウェイより発売された。8月には広島国際アニメーションフェスティバル、9月にはバンクーバー国際映画祭、11月にはオランダ国際アニメーション映画祭に招待上映され、その後も、ロッテルダム国際映画祭、ロンドン国際映画祭、ナッシュビル・インディペンデント国際映画祭などで招待上映が続いている。12月には1971〜2002年に制作したアニメーションや実験映像をあつめた「田名網敬一・快楽伝説」(UPLINK FACTORY)を開催。
2003年1月には『踊る金魚』(アムズ・アーツ・プレス)を出版。また、ファッション・ブランド「MARY QUANT LONDON」とコラボレーションをおこない話題を集めた。アニメーションのDVD『スクラップダイアリー』をヤマハCREAGEより発売。現在ソニークリエイティブ・プロダクツでタイムカプセル(フィギア)を制作中。

僕が刺激を受けたのは、赤坂に草月会館というのがあってね、アートやデザインやパフォーマンスなど領域をまたいで様々なものをやっているところだったんですね。今は、自由だ、自由だなんていいながら、表現の領域の区分けっていうのがはっきりしているよね。

 

「アメリカ」に刺激をうけながら60年代より活動を続ける田名網敬一。そのジャンルを大きくクロスオーバーさせる仕事は、現在も若い層から常に強く支持され、新たな田名網ワールドを拡げている。グラフメディア・ジーエムで6月5日より7月19日まで開催される田名網敬一『Ascension Furniture: 昇天する家具』展にあわせてインタビューを行った。

 

僕はそのころ博報堂の制作部のデザイナーとして何年か勤めていて、草月会館のそばに僕の家があったんです。で、草月会館にしょっちゅう出入りしていたことがきっかけで博報堂を辞めたんです。もっと他にもいろんなことがあるんだなっていうことが、そこでわかって。それからは勤めないでずっとフリーなんです。

1960年の後半にニューヨークに行ったんですよ。当時のニューヨークというのはまだドラッグなんかも解禁されている時代で、ロサンゼルスでもアシッド・ミュージックっていうのをどんどんやっていた。その他にも、ベトナム戦争やキング牧師の公民権運動、ゲイの人たちの解放運動や、ウッドストックっていう音楽のお祭りがあったりして、アートだけじゃなくて、政治や経済も含めていろんな運動がアメリカの社会の中で渦巻いていた時代だった。アメリカ自体がものすごく若い時代だった。そんなときにアメリカに行ったわけだから、その衝撃力はもの凄かったんです。それまでは、デザイナーやって給料もらえればいいかなっていう人生だったんだけど、それを境に180°変わったわけです。

 

今回の展覧会では、グラフとのコラボレーションで家具を含めたインテリアを制作した。平面やイメージの世界として存在する田名網の世界を現実のものとして表出させるものだ。そして、現実となったイメージの世界は、固定されることなくまたあらたなイメージを紡ぎだしてゆく。

 

僕の中には、60年代から続く「身体性」みたいなものが残ってる。要するに身体で何かを考えてつくっていくっていう感覚。今回の家具なんかにしても、無用の要素がたくさんくっついている。シンプルにしていけば何にもいらなくなっていくんだけど、そこにいろんないらないものがくっついてる。そういうもののおもしろさっていうのは、シンプルなものとはまた別にあると思う。

radio graf
guest : 田名網敬一