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『横向き山脈』
 伊藤存は、2000年の児玉画廊(大阪)での個展デビュー以来、常に注目を浴び続けてきた若手アーティストである。
 もっとも有名なのは刺繍を絵画として発表した作品だろうが、彼の表現は、それにとどまらず、アニメーション作品、本のかたちをした作品、立体と多岐にわたる。
 ロックバンド「反重力ジョニー」のメンバーでもある。逆さづりで演奏するこのバンドのギタリスト・伊藤存は、演奏中、ゆらゆらゆれている。
 伊藤存の作品には、既存の思考をゆらゆらゆらす機能がある。大きくは決してないのに(むしろ小さいものの集積)、観客の頭のなかは、彼の作品を前にして、軽いめまいを感じるだろう。見慣れた風景に不安がよぎる。そこは「かえる」が「かるえ」になる世界である。針を使う刺繍は、もしかしたら筆を使う絵画より、すこしだけ「危険」かもしれない。
『どうつぶ図鑑』より「かるえ」 『どうつぶ図鑑』より「いしのし」

「横浜トリエンナーレ2001」、「日常茶飯美」(水戸芸術館/2002年)をへて、2003年の現在、東京のワタリウム美術館で開催中の大規模な個展は、その伊藤存の多様な作風をあますところなく、網羅する内容となっている。
 中でも注目したいのは、数々のワークショップである。

『ブタのぬり絵プロジェクト』
『あぶり出し「どうつぶ図鑑」』
『ウラ展覧会ツアー』
『モンタージュ写生&名所メイキング』
『はんぶん 月見の会』

 詳細は展覧会のホームページを参照してもらいたいが、これらの言葉をながめているだけで、わくわくしてくる。
 しかも、上記のいずれかが毎日、行われ、作家自身、できるだけ毎日、来館するとのことだ。

「ブタのぬり絵」
 伊藤存についての紹介的なインタビューはすでに存在している(たとえば「美術手帖」2002年2月号)。また今回の個展に関しても談話/インタビューが多数、行われている(たとえば「SWITCH」9月号)。その繰り返しをするのも芸がない。したがって、ここでは、第1章「NEW TOWN」で子供の頃の話を、続く第2章「きんじょのはて」でワタリウム美術館での個展の、作者自身による展示解説をしてもらった。
『念写』(伊藤存+青木陵子)より
『念写』(伊藤存+青木陵子)より
【展覧会情報】
伊藤存『きんじょのはて』展
[会期]2003年9月5日(金)−11月24日(月)
[開館時間]11:00−19:00(毎週水曜日は21:00まで)
[休館日]月曜日(ただし、9月15日、10月13日、11月3日、24日の祝日は開館)
[入場料]大人1000円/学生(25歳未満)800円
〈会期中何度でも使えるパスポート制〉
[主催/会場]ワタリウム美術館
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前3-7-6
TEL:03-3402-3001
FAX:03-3405-7714
http://www.watarium.co.jp/

第1章 NEW TOWN

まず、最初に、子供の頃のことを聞かせていただけませんか。ご出身は大阪でしたよね。

伊藤:大阪やってんけど、新興住宅地やったから、空き地が近所にいっぱいありました。小学生のときは、よくそこであそんでましたね。柵がなかったし、自由さがあって、自転車のあそび、自転車のコースを板でつくるというあそびをしたり、カマキリなんかもたくさんいた。ススキもがんがん生えてたし、うっそうとしてて、子供の背丈だしね。水たまりにはザリガニとかの水棲昆虫がいたりした。キジもいたし、犬の出産も見ました。子犬についているゼリー状のマクみたいなのを、親犬が食べていくのを友達とずっと見てた。さわったりしてもあまり怒らない親犬やったな。いい母親だった(笑)。でも、そのマクがめっちゃくさかった(笑)。そこがあそび場だったんやけど、家が建っていくし、空き地はどんどんなくなっていって、もうない。ふと気づいたらなくなっていた。

野球とかはしませんでした?

伊藤:野球とかサッカーとかは全然せえへんかった。プラスチックのバットと帽子を買ってもらってあそんでも、おもしろくなかったです。へたなんもあるし、走る場所がわからなくて、「あっちや」とか「こっちや、こっち」というが、しんどかったというのもある。虫とりとかが好きだったから、そんなのが好きな子らとあそんでました。
 虫とりには、たとえば、あそこのクヌギの木にはクワガタの大きい奴が穴にはいっているという、そういうポイントがあってね。それをねらって、のぼってピンセットでつまみだすんです。
 ある日、そうやってのぼってた木がスパッて切られてた。それはすごくよくおぼえてます。「ああ、ほんとになくなった」、と。
 カブトムシとかクワガタとかは、もちろんたくさんとれるものではないから、それだけにショックも大きかった。木は、まあ、まずショックやろうけど、根っこがあるから、またのびてくることもできる。でも、クワガタは住むところがなくなったし、僕らはとるものがなくなった(笑)。そのサイクルみたいなのがおもろかったんです。

木が切られたあとに、その場所であそぶようになっていたら、またちがっていたでしょうね。タイミングが少しずれていたら、風景もかわっていただろうし。

伊藤:タイミングといえば、同じように、クワガタをよくとっていたポイントがあって、その家のおじいさんがよくのぼっていると外に出てくることがあったんやけど、「怒られるからにげろ」って僕ら毎回にげとった。でも、じつは、そのおじいさん、子供が好きで(笑)、いっしょにあそぼうと思ったら子供がみな逃げる(笑)。番犬みたいなよく吠える犬とともに現れるから、怒られると思ってたんだろうね。
 そういえば、なんかしらんけど焼き芋がはやったときがあった(笑)。ちょうどいい感じのガケというか、洞窟があって、水もちょろちょろ出てて、ホイルと芋をもって(笑)、そこでたき火をして、芋をいれて、焼いて、食べて、帰るという(笑)。
 空き地っておもしろくて、木をただひっこぬいた、みたいなのがボンっとおいてあったりとか。砂がバーってもられてたり、ハリガネのかたまりがすててあったりとか、その乱暴さがおもしろいですね。年代をへたもの、季節をへたものが、ある。どうしようもないものがポンッてすててあったりとか、それがいい感じできいてたりとか。一度、粘土みたいな土の山があって、その粘土みたいもので、道路にケッカイみたいのをつくろうとしてたら見つかって、めっちゃ怒られたことがある(笑)。いなかの方の道だったし、車が少なかったし、車がくるまでに粘土でこの道、埋めれるかもしらんと思ったんだけどね。

子供のときって、そういう空き地にある巨大な石とかがすごい遺跡に見えたり、そう見立てたいというか、そういう欲望がありますよね。

伊藤:それでちょっと思い出したけど、小学生の2、3年の頃に習字セットを買ってもらったんです。それでヨロイを着た人、着物を着た人とかを描いたら「昔の人の絵みたいだ」と思った。筆と墨で描くから。本当にそう思ったから、埋めて、だれか見つけたら、「昔の人が描いたものにならないかな」、と思って埋めたことが1回ある(笑)。「未来の人がみっけたら、鎌倉時代とおなじと思わないかな」と思ってた(笑)。もちろん、そんなことないし、発見されるまでには腐ってなくなってる(笑)。
 近所に陶器山というのがあって、スエキっていう器のかけらがおちている場所があって、渡来人が陶器を教えてた頃のもので、それは本物なんだけど、でも、ほかの山で、なんかのかけらが落ちていたりしても「これは!」とか思ったりしてた(笑)。
 化石を見つけたかったんですね。山の斜面がえぐれてるのを見ても「フタバスズキリュウは鈴木くんが見つけたんだよな」とか思いながら「あそこには何か地層が出てる!」とか(笑)

全部身近に大発見がそろってるみたい(笑)。

伊藤:そんなあまいもんじゃないのに(笑)。

でも、子供のときってそうですよね。魚釣りはもうやっていたんですか。

伊藤:魚釣りは小学校5年くらいのとき。それまでは、アミでちっちゃい魚をバッとすくうのが好きでしたね。でも、友達が「ちょっと投げさしたるわ」ってルアーを貸してくれて、それを使ったら、すぐに釣れてしまった。初めて投げて、「どうやってまくの」「ゆっくりまくねん」。で、まいてたら、「釣れた!」ってなって。それで、ルアーセット買ってもらったんです。池も多かったから、そこを転々としてました。
 釣りは、けど、高校生くらいのときはいったんやらなくなって、大学に入って3回生くらいからまた始めて、今はだいぶ、ヤバイくらいやってる(笑)。釣りはアミですくってたのとはちがって、つながっている感じが気持ち悪いです。それがおもしろいし、ヘンやなあって。
 釣り糸を流してたらすごい手前まできたりとか。水面が見える場合は、魚がルアーについてきてるのも見えます。

そのまま岸にあがってきそうな(笑)。

伊藤:そんな感じ。でも、プイッて急に横を向いて行ってしまって、相手が魚でも、むっちゃかなしいです(笑)。

釣った魚とか捕まえた虫とかは、そのあとどうするんですか。

伊藤:虫は飼ったりして。魚は飼ってなかったかな。水棲昆虫、ミズカマキリとかザリガニとか、カマキリは卵からかえしたり、交尾しているのを見たりしてました。クワガタは戦わせたり。そういうのがむっちゃ好きでした。

じゃあ、家の外でも虫にかこまれてて、家の中でも虫にかこまれてたんですね(笑)。昆虫と比べて、動物はどうですか?

伊藤:動物はなかなかとりにいけないから(笑)。実家で犬は飼っていました。もう死なはったけど。その犬は、こっちに遊びにこようとしても、たとえばカメラをむけてずっと撮ってたら、だんだんイヤな気分になっていくのがわかる。何か思っているんだろうけど、通じひんところとか、説明してくれへんところとか、そういう意味で虫と似ているとも思うけど、虫の方がもっとすごいですよね。

そもそもどこを見ているかわからないし。

伊藤:そう。カマキリで遊んでても、目がテンで、それがどこの角度から見てても、ついてくる。後ろ向いてもこっち見てる。「こいつ、すごい」と(笑)。
 あと、飼ってたカマキリが、ともぐいして、片方が頭から上くらいになってしまったことがあって、ポトって落ちて、でも、顔がまだ動いていて、どうしようと思ったことがありました。どうしようと思って、試しにコオロギとか食べた残りをもう一度食べさせたら(笑)、食べた。からだ半分なのに。こう口が動いて、飲み込んでいく。「すごいなー」とか思って(笑)。だんだん意識は遠のいていった感じやったけど。

それは、本当にすごいですね。

伊藤:うん。動物だったら絶対死んでるし。「虫はちがうな」って思った。
 友達と、たんぼとか用水路とかでドジョウをいっぱいとってきて、その友達のうちで、すごくでかくなったミドリガメの水槽にそのドジョウを水をいっぱいにしていれたこともあります。そしたらものすごいことが始まって、食べる、食べる。阿鼻叫喚(笑)。
 で、それを見ることに味をしめて(笑)、飼育係をやってて、そんでニワトリがある日、虫を食べているのを発見して「ここでもあれができる」(笑)。学校の敷地内でバッタを山ほどとってきて、そこにバンってばらまいたらすごいことになった。それを見るのがおもしろかった。逃げるわ、食うわ。こっちはそれをひたすら、見る。虫にしてみたら、とんでもない、迷惑な話やけどね。ニワトリにとってもすごい不自然な状況(笑)。

じゃあ、静かに本を読む、みたいな子供ではなくて、ひたすら動くものを追い求めていた、と。

伊藤:そうかもしれない。本は、源氏とか平家とかが好きで、「源義経」のおんなじような本を何冊か、そういうのを「あれもほしい」って買ってもらったりしてました。あとは、アダムスンという人の「野生のエルザ」という話と、「野生のピッパ」という、チーターをそだてる話。それが好きだった。

すこし、かたよっている(笑)。

伊藤:だいぶかたよってる(笑)。なんで、そんなのになったのかというと、子供文学全集の日本編と世界編というのがあって、それを読んで、そんなかでいちばん気にいったんだと思う。

絵は小学生の頃から描いてたんですか。

伊藤:最初は親に「あれ描いて」「これ描いて」って、たのんで。「ライオン、描いて」っていってもできてくると、それがどうしてもちがう。思っているのと、できてきた絵がちがうのが、はがゆいというか。だから、描いてもらっても消してしまう。それで、自分ではやく描こうと思ったというのはある。今でも親にいわれますね、「お母さんがせっかく描いたのを消していった」って(笑)。動物図鑑もすごい好きやった。図鑑っていうものがそもそも好きでした。いい気分になれる(笑)。「チーターを飼ったらどんなんかな」って妄想がはじまる。今は魚図鑑かな。これはより現実的で、この魚釣りたいなあとか。

図鑑といえば、伊藤さんのライフワーク的作品の『どうつぶ図鑑』とも、それはつながる話ですね。

伊藤:『どうつぶ図鑑』のきっかけは、すごい単純で、これは大人になってからだけど、「かえる」って書こうと思って、「かるえ」って書いてしまったんです。そしたら、「かるえ」ってどんなものなんかなあって思ったところから描いてみた。そこから始まったものです。
 たとえば「いのしし」っていったら、あのけむくじゃらのかたちが浮かぶけど、それをちょっと変えて「いしのし」ってすると、かたちが浮かびきれないというか、なんだかちょっと不思議な感じになるでしょう。

そうですね。

伊藤:小学生のときに、自分の妹が急に、「この人、なんなんやろ」って思えてきたときがあったんです。自分との関係がアヤフヤになるというか、「なんで、ここに、生まれておるんやろ」って思えて仕方がない。それは友達とのあいだでもあって、友達が突然、全然知らない人に見えたりする。もちろん意識的にそういう方向にもっていくんですが、自分と妹、自分と友達の、その関係を1回なかったことにして接してみたら、すごいヘンな感じがするんです。その感じが「ヘンだな」、「おもろいな」って思ってた。失礼なんやけど、なんか笑えて仕方なくて。
 見方の練習っていうか、空き地とかを見るときでも、そうです。ただの不法投棄物ではなくて、ハリガネのかたまりがなんか不思議なかたちとして見えてくる。「かえる」と「かるえ」の関係が引き出すのも、ちょうどそれと同じような感覚かもしれません。猫だって、おるけど、見てたら、毛いっぱい生えてて、「あれちょっとヘンやで」って思う(笑)。

それは、宇宙人の視線みたいですね。まあ、地球人が宇宙人を見る視線でもいいけど、属性とかを全部、ちゃらにしてみるというか。

伊藤:宇宙人はいとことさがしにいったことがあって(笑)。宇宙人っていろいろなかたちをしているでしょう。いろいろあるけど、じつは人間と同じ格好をしているとか、でもどっかおかしな動きをしてるとか、そういうのもある。それで、1回、電車の中で最高のときがあって、「全員、宇宙人や」っていう(笑)。座席に、ふかく腰かけるんじゃなくて、ホントにほんのちょっとだけ、ちょんとしか腰かけてないおっさんがすぐ目の前にいたりとか、もうまちがいない(笑)。

お話を聞いていて、頭のなかと、外の世界の連係プレーが見事だなあと思いました。

伊藤:大人になると、これはこういうもの、あれはああいうもの、という区別がある程度、はっきりしてしまいますよね。だから、それを取り払う努力がいるかもしれません。でも子供だったら思い込みだけでじゅうぶんだから。

 

第2章 きんじょのはて 

では、ワタリウム美術館での個展『きんじょのはて』について伺います。今まで聞いてきたことも、想像の領域に関する話でしたけど、せっかくなので、ここで、想像のなかで、展覧会ツアーをしてもらえたらって思います。

伊藤:うん。展示は、まず、2階から始まります。
2階は『ブタのぬり絵プロジェクト』で、これは事前にワークショップでたくさんの人に描いてもらって、それを集めたものと、会期中に随時やってもらうもので構成されます。『ブタのぬり絵』で壁が覆われていって、それじたいが絵になっていくというものです。
 それと刺繍の作品ですね。新作もすでにいくつかできていて、2階の展示室は天井が高いので、タテに長い作品を初めてつくってみました。新作は、これまで以上に、何を描いてあるのかわからなくなっています(笑)。
『ブタのぬり絵』は卒業制作のときからの作品なので、だいぶ前からのつきあいです。卒業制作では3冊、本を作ったんです。『マン・オブ・ボディパーツ』というのと、『ブタのぬり絵』と、あと『カスの本』。
『マン・オブ・ボディパーツ』は、からだの、部分的なドローイングなんですけど、それの寄せ集め、集積で、その1冊で人ができあがっています。
『ブタのぬり絵』というのは、「ブタ」というものを制約みたいなかたちで人に与えて、人というのは、この場合とりあえず僕だけなんだけど、色とかどうしていくかっていう、まあ、遊び的なものです。「ブタ」という制約があるので、自分だけでは意外と自由にできない。そこがおもしろいんですね。
『カスの本』というのは、逆に規制なしでつくってったものを、本のかたちにまとめていったもので、自由度が高い。
 だから、徐々に自由度があがっていくという感じかな。つくるときにあれもしたい、これもしたいというのがあったんだけど、でも、『カスの本』のなかに、『マン・オブ・ボディパーツ』はいれれへんし、いれてもええんやけど、これはひとつでやったほうがいいやんとか、ぬり絵というのもやりたいけど、これは分けてやろうとか、本にしたら、わけて考えられるかなって。本というかたちを選んだのは、わりと単純な理由なんです。
 あと、当時は作り手のなかでも大きいものをつくる傾向があったけど、「そういうので搬入がたいへんなのもイヤやな」というのもありました。「じゃあ、逆にちっちゃいものにしたろ」と思って、本だったら大きい小さい関係ないですし。百科事典とかいっても、すごい名前だけど、大きさとかたかがしれてるでしょう(笑)。

これは市長賞を受賞してますね。

伊藤:1万円もらった(笑)。もう今日中にいかなお金もらえへんっていうまで、ほったらかしてて、それをもらいに行くために、消しゴムで自分の名前のはんこを作ったんをおぼえてます。「はんこがないとあかん」といわれてね。ヤバイと思って、カッターで「いとう」と彫って(笑)、学校に取りにいった。
 まあ、このときの「ブタ」は自分につくりやすいために自分で用意した、外からの要因って感じやってんけど、水戸芸術館ではじめて、この『ブタのぬり絵』を他の人にもやってもらおうかなって思ったんです。
 これはそのすこし前にグッズとして『ブタのぬり絵』の何も色を塗ってないのをつくっていたので、それのあまりをコピーして増やして、会場にきた人に、ぬり絵を描いてもらった。いろんな色でブタが塗られていたり、すごいおもろいのがいっぱい集まりました。僕が自分でやってたときなんかより自由度の高いものがあったりして(笑)。
 言語っていうのは、どこまでも理解を前提にしているけど、ぬり絵で、いろんな人が塗ってくれたのを見たら、理解とは別に、これはこれで十分いえているんだ、わけがわからないけれども、それ以上追及せずに、ここまでで出せる場所、領域があるんだ、と思うんです。「これはどういう気持ちなんやろう」とか「どういう気分なんやろう」とかそういうふうに言葉で考えるのがもったいないというか。言葉じゃないものの表現というか、反応が、新しいと思うんです。コミュニケーションというのとはちがうと思いますが、わかるとか、わからないとかじゃなく、ただ、ある。それをあいまいなゾーンとして、置いていたらいいんじゃないかなって。手に負えないくらい集まってくるし、いちいち判断できないし、そのひとつひとつがほんとにおもしろいし。これはこれがあるというだけでいいか、と。
 こないだのワークショップでおもしろかったんは、老人のデイケアセンターでね、やってもらってたら、1人だけ、「わたしはこういうのしないから」というおばあさんがいて、もうぜったいしない。それはすごいおもしろかった。その人の歴史を感じました。おばあさんのなかに、きっといろんな反応と葛藤があったんでしょう。それがやらへんことによってよく表現されてしまっている(笑)。

ワークショップというのも不思議な表現手法ですね。まさにそれをやっているときと、その成果を展示するのとでは、またちがうでしょう。

伊藤:そのへん、まだ考え中で、もっといい方法があるんじゃないかなとは思っています。
『ブタのぬり絵プロジェクト』は描いてもらった「ぬり絵」を壁に貼って、それがあるかたちになっています。そこには、絵を描いてくれたんだし、絵で返そうという気持ちをこめています。絵をかたちづくっているユニットの、その中にも絵があるという、その感じも自分ではおもしろい気がしています。
 でも、みんな意外に近くで見るから、壁に貼ってある絵が、あるかたちを構成していることになかなか気がつかない。その気づかない状態もふくめて、おもしろいです。

刺繍の作品の見られ方とも似ているかもしれないですね。

伊藤:ちょっと似てますね。刺繍の作品で何を描いているのか、たとえば犬の顔みたいに見える、それをもっとはっきりと他の線と区別していくこともできるけど、それをしてしまったら、空き地とかで感じてた気持ちが消えてしまう。消えてしまった方がみんなは見やすくなるんだけど、つくるときも理解しやすくなるけど、それはちがうでしょう。

伊藤さんの作品って、記憶できないですものね。いつまでも見終わらないというか。『山並ハイウェー』とか、ひんぱんに図版になっているものは、半ば強制的に、おぼえてしまうけど、やっぱり見ているとき、まのあたりにしているときがおもしろいです。2階は近寄ったり遠のいたり、観客の動きこそがおもしろいかもしれないですね。では3階に行きましょう。

伊藤:3階では下のギャラリーで立っていろいろ見てもらったので座ってもらおうかなって思っています。クッションをおいて、椅子もあるねんけど、椅子の上にも本をおいて、低い位置にしようかなって。それと、まだこれはどうなるかわからないけど、旧作の刺繍何点かと、ドローイングを何点か壁に貼ろうかなと思っています。
 あと、ガラス張りのところがあるので、そこにも絵を描こうと思っています。オペラグラスを置いて、展望台みたいに、あそこの壁がなくなったとしたら、という設定で向かいの壁の外の風景をそこに描く予定です。

本はどういう内容のものですか。

伊藤:本はね、『どうつぶ図鑑』と、それから、『BBQ』ってタイトルで、バーベキューに行くような場所にある、山の斜面のコンクリートとか、増水で負けた草がある砂地とか、そういう地面の写真をトレースしたもの。何枚もある写真を選ぶときに、いろんな基準があるはずの、その気に入っている理由をたどりつつ、ページをめくるもにしようかなと思っています。
 あと、今ちょっと考えてるのが、今考えてるってのがヤバイけど(笑)、『カスの本』とおなじような方法をとりたいんやけど、同じことをやるのはちょっとなっていうのがあって、アルバムみたいな本のかたちにしようかと思っているものもあります。昔のアルバムとか見ると、結構工夫して貼ってたりするでしょう。あの丁寧な感じがいいなあって。『カスの本』ってちょっと乱暴な貼り方とかしてたし、地位を高くしたろかなっていう、まだできてないので、まさに想像の話です(笑)。

さて、エレベーターに乗って、4階の展示室です。ここは青木陵子さんとの合作アニメーションの部屋ですね。

伊藤:作品のタイトルは『説子』(せつこ)といいます。いろんな「説」の「子供」という感じの意味です。いろんな場面があって、そのいろんな場面を仮に「説」と呼ぼうと。

アニメーションの作品って、今まで何作品あるんですか。

伊藤:『念写』と『湧く壁』だけ。それと今度の『説子』。(青木陵子と)2人でつくったのはこの3つですね。

まだ3作目なんですね。

青木陵子:うん、意外と少ない。

伊藤:紹介されるときは必ず、アニメ作家みたいに書かれるけど、じつはまだ2つしか、つくってない(笑)。
 僕が個人でつくったのは、水戸芸術館(『日常茶飯美』展/2002年)と児玉画廊で2回め(個展『ぶらぶらリキッド』/2001年)をやったときです。どちらもひとつの場面だけの繰り返しです。「説」だけ(笑)。

合作と個人でつくるのとはちがうものですか。

伊藤:僕のは、他の展示作品とつながっていくという感じ。刺繍だったらまちがいなく動いてくれへんし、だからそれの補足という感じもあるかな。動いてないものと動いているものと一緒におきたかった。アニメーションのために別の部屋を設けて、というのは僕だけの場合は考えられなくて。

青木:自分でつくったらだいたい予測ができてしまうけど、いっしょにつくると、予測できひん部分とかもいっぱいあって、発見がある気がします。自分で完成したものをつくらんでいいし、基本的にはラクかもしれない。おたがいの要素の合わせ方によって全然ちがうものになるし。自分の描いたものだけで1本にすると、しんどい部分とかがあるから。

2階、3階、4階と見るのに時間、かかりそうですね。いろんな時間で見れるともいえるし。『説子』はちなみに何分くらいの作品なんですか。

伊藤:時間はあんまり意識してつくってないです。まだ途中やけど、3分、4分はあると思う。
 今回のアニメーションは、たとえば、「こんなもん見てな」とか、「あそこがこんなんでな」とか、すごい説明してんけど、3割くらいしか伝わってない状況(笑)、そういうのに似たものになると思います。そういう、いえてない、というところがおもしろくて。あと、さっきの宇宙人の話ともつながるけど、子供がよく道端で、歌なんかうたって、テレビのヒーローものになりきってたりするでしょう。まわりの通行人は怪人とか、その子の頭のなかではいろいろひろがっている世界。そのときの頭のなかってどんな感じかなって思うんです。いえてないという感じをいいたい(笑)。

完成形というのは頭に最初からあるんですか。

青木:ぼんやりとしたイメージがあって、ちょっとずつ、こういうシーンをいれようとか、メモしていって、おたがいにつくっていくうちに、はっきりしていく感じかな。でも、今回の作品は今までよりとくにぼんやりしたものになってると思う。

準備の段階がいくつかあるんですね。

伊藤:今回、僕は口でいうばっかりです。内容に関しては、合作やけど、実質的な作業、コンピューター上の作業はまかせてしまって、僕が刺繍をつくってるあいだに、アニメがどんどん先にすすんでいるという(笑)。
 この『説子』はひとつの作品だけど、5つの「説」があるとしたら、そのうちのひとつをいずれ、長いものにしようかとも思っています。でも、これはプロセスの問題だから、実際に作品を見ても、今いったとおりには受けとれないかもしれないけど。

青木:全然伝わらないと思う(笑)。

伊藤:うまく整理していったらおもしろくなくなってしまうこともあるし、整理はあえてしていないです。あいまいな「説」というのを、もっと厚みをつけて、ひとつの「説」にしていくのも『説子』の展開として考えてるから。まあ、ある種の人は怒りそうな感じかもしれない。「あいまいなことをあいまいに伝えるな」とか(笑)。だけど、それがやりたいことだし。なんせ、そもそも、やろうとしているのは、いえてない、ということだから(笑)。

[2003年8月20日22時30分−24時30分/京都]

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