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こういうお仕事を始められたきっかけは?
もともと、大阪市立大学の建築学科で建築を勉強し、大学院では阪大の環境工学を専攻し2年間まちづくりを学び、竹中工務店に就職しました。竹中では設計をしていた時期もありますし、現場へも出ましたし、まちづくりのコンサルタントの事務所に出向したりと、建築とまちづくりという二つの分野でやってました。
大学時代からネットワークをはる(作る)ことに興味があって、大学院生の時、都市デザイン学生の会というのを作ったんですよ。(今は続いているかどうかちょっと分らないですけど、僕が卒業してからも5年くらいは存続してました。)それは交流をメインにしていてイベントを企画していろんな人と話をしたり、いっしょにまちあるきをしたりしてたんですね。卒業後、竹中工務店という組織に入り半年くらい会社の仕事だけをしてたんですけど、ちょっと行き詰まりを感じて、社会人の会を作ってみようと、新たに25人ほどランドスケープ(公園などのオープンスペースをデザインする人)、建築家、役所の人、またアーティストなんかも集まって、パートナーシップ研究会を立ち上げたんです。現在では、そのメンバーがそれぞれ独立して、悠長に研究会をやっている場合じゃなくなってきて活動休止中なんです。

そこではどういうことをしていたんですか?
普段、仕事をしていると日常の業務を批評しあう機会がなく、がんばったけど埋もれていってしまうことがほとんどなんですよ。それはもったいないということで、例えば、コンペに出したけど負けてしまった作品の発表をして、みんなで意見を言い合ったり批評したり。考え方やテーマを共有するために最初の1年ほどそういう勉強会を重ねていって、2年目からは会でコンペに参加したりという活動を始めたんです。
そのころ神戸市のまちづくり推進課にいた(大変ユニークな)課長さんにおもしろいことやってるなって注目されて。
 
 
2000年、震災後だったんですが、神戸市中央区で、客足の遠のいている大日六丁目商店街を活性化するためのコンペがあり、まちづくりのコンサルタント会社など5社ほどの指名の中にパートナーシップ研究会も入ってプランを出したんです。顔づくりをしましょう、ポケット広場を展開しましょうとか、アートを取り込んだり。丹波篠山の県下の産地と商店街とで手を組んでアンテナショップを持ちましょうというアイデアも。そのコンペがおもしろかったのは、いわゆる学識研究者ではなく、商店街の会長が権限を持っていて、若くてパワーあるしおもしろそうなのでいっしょにやってほしいということで、僕らが選ばれたんです。
その時まだ会社員だったので副収入を得るのは本当はだめなんですけど、アフターファイブと土日だけという約束で仕事をすることに。商店街の会長さんはそれでも「是非いっしょにやって欲しい」ってことで、1999年、2000年の2年間、いろいろ企画を立ててやってたんです。例えば、アーティストの提案だったんですけど、いろんな色の1文字フラッグ(商店街の人が好きな文字を選んで)というのを作って、アーケードに吊るしたり(今でもあります。)空き地(本当は使えなかった場所だったんですが)をみんなで掃除することからはじめて、写真展をしたり、子供向けのイベントや、丹波篠山の特産市をしてみたり、震災の記念日にはメモリアルのためのイベントをプレゼントしたことも。そのうち、だんだんとその場所がきれいになっていって。最初にお金をかけて広場を作って何かやりましょうではなくて、いろんなことに使ってみて、こんなことにもあんなことにも使えますよって見せていくうちに、御褒美みたいなもんなんですけど、最後に広場として整備するための予算がついたんです。これはほんとに特例だったみたいです。予算は低かったんですが、僕らの研究会のメンバーがいろんなことに使えるようにデザインしました。今でも月に一度出店が出てるようです。この広場を作ってこの仕事は終わったんですが、今でもこの商店街は、他のところと比べると活気があって生き残っているようです。
メモリアルイベント鎮魂火
 
この時に知り合った人に、丹波篠山でまちづくりのレクチャーを頼まれて、100人ほどを前にして話をすることに。
参加者の中に鳳鳴酒造という老舗の人がいて、まち家と酒蔵を観光資源にしたいんだけどノという相談をもちかけられて、お金もそんなにないんだけど何か考えてほしいと。デザインはgrafの服部くんにお願いして、相談しながら。結局1年半かかったんですけど、最後は意地になってやりましたね。絶対、残さなあかんって。予算も当初の額の1/4程度に減ったりして大変だったんですけど、最終的に、あるものを生かして改装したのが逆によかったようで、照明の賞をとったりもしました。お客さんもたくさん来てるようですし。

でも会社の仕事をしながらって大変そうですね。
これをしてる頃に、会社の仕事とアフターファイブにしている仕事の両立がしんどくなってきたんです。
個人で勝負したくなってくる。アメリカなんかではパートナーシップとかアソシエーションとかいって、個人の小さな事務所がプロジェクトごとに集まって仕事をして終わったらまた解散してっていうやり方があるんですけど、日本でもこういうことをやってみたいと考えるようになって。日本ではそういうプロデュースしているようなところもなかったし、じゃあ僕がやってみようと独立することに。目処なんてなかったですし、反対もされたましたけどね。気狂ったんじゃないかって。(子供が二人いて、マンションも買ったところだったのでローンも抱えてたんですが)でも肉体的にも精神的にも限界で、潮時だったんです。どっちのぞうりを履いてやっていくのか決断しなければいけないなあと。あと2年勤務したら、退職金がぐんと上がるって人事部の人に引き止められたりもしたんですけど、2年したら決心が鈍るかなあとエイヤーってやめたんです。なんとかなるかなって。一回きりの人生ですしね。
鳳鳴酒造外観
鳳鳴酒造酒蔵ミュージアム部分
鳳鳴酒造町屋物販部分
 

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