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『都市文化研究報告 その2』
— 内部において(向けて)開かれるということー
篠原 雅武
前置き
 
 アートと社会との「つながり」「橋渡し」あるいは「アウト・リーチ」といったコンセプトのもと、それら両者を対立項と前提し、相互交流をはかる試みが多々ある。その実態につき、調査を踏まえ考察することが、この研究報告の主たる目的であった。けれど、調査を進め考察し、あるいは様々な人との議論を繰り返すうち、こういった言葉、つまりは「橋渡し」や「交流」は、何をするのであれコンセプトとして使いやすい言葉であること、一様に、こういった言葉が冠されたところであっても、その内実は千差万別であることが、筆者に解かり出したのである。前回は、セネット等の議論に即しつつ、「外向き」あるいは「開かれること」といった概念について抽象的に検討したのだったが、今回は、これら言葉の意味につき、具体的事例に即しつつ、より慎重に考察してみたい。

1 大阪築港赤レンガ倉庫
<旧200棟を東方向に見る> <広場中央より全景を見る>

 [大正12年、住友倉庫により竣工されて以来、大阪市の表玄関である築港と、国内外の各地とを結びつける、物流の拠点の一角を担う。昭和40年ごろ、港湾物流の主流が、コンテナ船を使うものへと変わるにつれて、その拠点もまた、築港から、コンテナ船対応の港である南港へと移る。こういった事情を経て後、赤レンガ倉庫は、倉庫としての役目を終えて、1999年、大阪市の管轄下となる。2001年3月、大阪市による文化振興事業を行うための、中核的な一拠点と定められる。その後、2002年4月、そこで行われる事業の名称が、『大阪市アーツアポリア事業』と定まる。当の事業は10年間、継続的に行われる。赤レンガ倉庫について考察するにあたっては、倉庫が芸術振興の場へと転用されたという、物的環境条件の特殊性だけではなく、そこで行われている、『アーツアポリア』なる名を冠した事業自体の特殊性にも、着目する必要があるだろう。]

(a)立地
<図A 大阪築港略図>
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<図B 赤煉瓦倉庫の現状>
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(I)周辺環境との関係について


<商店街>
<住宅>
<車道aによる分離>
<信号>
<道路eによる分離>
( 道路向こうが赤レンガ倉庫)
<USJハウスとCASOと広場>
<柵>
 赤レンガ倉庫はかつて物流拠点であったため、それにちなんだイメージが、形成されがちである。すなわちたとえば、《物流拠点》という言葉が喚起する、外に向かって開けており、誰であれ何であれ、多くの人や物が集積しては交流するといったイメージ。けれども、『アクションプラン』(*1)では、赤レンガ倉庫の立地について、次のように述べられている。「この地域の特徴は道路が大型車輌向けであり一般住民からの気軽なアクセスは必ずしも安全とは言えない。また近隣に若者向けの飲食店もない」(*2)と。つまり、倉庫は、上記のイメージにおいてではなく、むしろ、その具体的な立地状況からする分離‐隔離の状態において把握されている。すなわちかつて果たした物流拠点というイメージを払拭したところ、つまりは今ある倉庫の具体的状態に即して、過去とは断絶したものとして把握されるのである。 図Aを参照しつつ、立地状況につき、より詳細に検討してみる。地下鉄大阪港駅から、倉庫に至る途上には、商店街(駅を降りてすぐ、規模は小さく、日用品や食料品を扱う店舗が多いが、飲食店もある)、住宅地(大阪市営住宅、大阪市住宅公社の賃貸住宅や社宅等、団地が多くを占める)、保育園、小学校等がある。また、cの通りを行くに際しては、小学校の真向かいに、公園及び中学校を目にするだろう。倉庫は、こういった周辺環境との関係において、aおよびbの車道(大型車輌向け)により、分離されている。なお、車道aにまたがる横断歩道の信号の写真配置は、赤95秒:青15秒であった。
倉庫が分離されているのは、地域の一般住民からだけではない。大阪港駅を挟んで、倉庫のちょうど向かい側には、天保山公園、天保山ハーバービレッジ(マーケットプレイス、海遊館、サントリーミュージアム[天保山]、ホテルシーガルてんぽーざん大阪)を主な構成要素とする、遊興地域がある。この遊興地域自体、倉庫と同様、道路dにより、地域住民との関係においては、分離されている。けれどもこちらは主として(サントリーミュージアムは一応除くとしても)、商業的な意図からする分離であると見て取ることが可能である。すなわち、周囲の日常生活からして反対の、商業的に非日常性を醸し出すための方策としての分離である。この遊興地域に向かう人の流れと、赤レンガ倉庫に向かう人の流れと、両者は国道172号線(道路e)により分離されている。
また赤レンガ倉庫が位置する領域内部には、USJハウス(USJに勤務する人たちの宿泊施設)、およびCASO (*3)ギャラリー山口 (*4)とが一体を成す建物がある。図Bに明らかであるが、赤レンガ倉庫と、これら二つの建物の間には、広大な広場がある。広場には、人が佇んだり集まったりすることの可能なベンチなど、設置されておらず、ただの空白地帯である。つまり、ただ、両者を隔てる分離地帯として機能すると見て取ることが可能である。またこの分離は、広場によってのみならず、乗り越え困難な柵によっても維持されている。 柵の設置は、倉庫がアーツアポリア事業の実現の場と定められてより後のことである (*5)
『アクションプラン』には、この、赤レンガ倉庫の、周辺環境からの重層的な分離‐隔離の状態を、次のように肯定的に認識し、かつ、積極的に活用すべきであると、明記されている。「気軽なアクセスが出来ないことが、敷地内での創造活動に直接関係しない事象から活動を守るクッションにも成り得る。また、既存の商業的な若者文化が存在しないために、商業性に捕われる事なく新しい文化の芽を育てる環境ともいえる」 (*6)

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