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 さて、半年が過ぎました。半年の「半」という字、よく見ると、ちょっと電柱に似ていませんか。数学とかで「≠」という記号を使ったことがありますが、「≠」は、その左右に配された数字等がイコールではない、という意味で、斜めに突き刺さった棒がそのことを強く表現しています。この、斜め、というところがいささかわざとらしいと思えなくもありません。それで、そこのところを調整しているようにも見えます。今回は、半年が過ぎたということもありますし、これまでの経過を振り返ってみます。
  毎回この連載は英文に翻訳されています。全地球人に告げているわけですから、これくらいは当然のことですが、手順はどうなっているのでしょう。説明してみます。毎回の日本語原稿を僕が書く際、600字以内の英訳用の原稿も同時に作成し、翻訳者に渡しているのです。説明してみせるほどのことでもなかったですが、翻訳者は要約原稿を元に、全地球人に向けて、翻訳するということです。
  じつをいうと、これは僕だけがやっていることではありません。本誌全体に英訳がほどこされているのであって、この記事だけではないのですが、まあそれは置くことにして、大切なのは毎回600字の英訳用要約原稿が存在していることです。
  600字ですから、日本語原稿で触れていた多くの魅力ある言葉たちがやむを得ず省かれています。しかし、ポイントを踏まえた簡潔な文になっているともいえそうです。というわけで、今回は1から6までをダイジェスト版と題して、振り返ることにしましょう。

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  伊藤千枝は振り付けをするとき、以前は「振り」を「付け」る作業を文字どおり、していたが、最近は振り付けを〈現象〉としてとらえるようになった。ある動きと、別のある動きのあいだに〈現象〉するものとして、振り付けをとらえるようになった。それはまた、作業を冒頭から作ることと相似形をなしてもいて、作品の着地点を探すのが創作の過程になっている。それは個々の「振り」と作品全体が連携しあっているからである。
  また連携は別のところ、たとえばカンパニーのダンサー全員が関わる本公演とソロもしくはデュオの小さな公演のあいだにも見られるし、そのほかにも、作品『私たちの家』以前とそれ以降の作品のあいだにも見られる。それらは時間軸に沿って見いだされたものだが、伊藤の中ではいつでも並列していて、たがいに「連携」しあっている(ように見える)。
  全10回にわたってここに書かれるこの文章は、プロジェクトと「連携」している。文章が言葉のままで終わるのではなく、現実に関わることを目指すからである。プロジェクトの内容は、伊藤のカンパニーである珍しいキノコ舞踊団の初の大阪本公演の実現、というものである。伊藤は空間を踏まえた上で創作するとも語っている。
東京から夜行バスに乗ってやってくる、という経験もときには「観客」にとって必要かもしれない。いずれにせよ、このような「冒頭」
からこの連載は始まることになる。



  いったい何をしたらいいのかわからぬまま、少々かっこうつけて前回はしめくくったのだが、あれでよかったのか。せっかくこの場所に文を書く機会を得たのだから、有意義なことがしたいと思っているが、そんなことが私にできるのか。東京の、今、まさに世界へ羽ばたきつつある、最前線といっていい場所にいると私みたいな素人目にも明らかなダンスカンパニーが、本当に私なんかを相手にしてくれるのか。あれは夢だったのではないか。いや、たしかに、本人に会い、大阪での公演の約束をとりつけたのである。その澄んだ声も覚えている。だが、今ではもう、幻聴であったかもしれぬと、そう思ってもいる……。
  そもそも芝居とちがって、戯曲というかたちで一般的な記述が不可能なダンスは、まさに、幻聴・幻影そのものではないか。観客は、ある動きとその次の動きを目で追っていくうちに、前の動きを忘れてしまう。
  私は伊藤千枝の振付/構成は、忘れていることの強調を目指しているように見える。むろん、そうかといって、全部忘れてしまうのではない。記憶は、不完全ながら、残る。近年の作品(『私たちの家』以降)は日常性の導入により、忘れてしまうこと・記憶していること、を強調しているように見える……などと書いていたら、伊藤本人からFAXが届いた。まぼろしではないことを確認するためにも、次回は彼女にインタビューを試みてみよう。



(伊藤千枝インタビューより抜粋)
伊藤千枝;舞台と日常生活の空間のあいだを行ったり来たりしながら、どういうふうにダンスがたちあがるのか。それはダンスとは何だろうということになるんですが、私たちが踊るっていったいどういうことで、踊るときに私たちはどういうふうに感じるのか、踊ることで起きてくる感情だとか、まわりの空気が変わってくるということはどういうものなんだろうという考察は、『私たちの家』から始めてきたことです。初日の緊張感って、踊っている側からすると、出て行くと、空間がまっさらなんですよ。最近はそんなにないけど、何にも埋まってない感じがして、スカスカなんです。でも、おんなじ公演を何回も繰り返していくと、不思議なんですけど空間が埋まっていく。その感覚って不思議で、えもいわれぬものがある。稽古場ではなく、ステージにあげて、観客の方がいて、その前で踊って、そのときにいったい何が起こるかというのは、いくら稽古をしてもぜんぜん読めないしわからない。ステージにあげることでつかめるってことがあるんですよね。
  -それは第1回で〈現象〉って言われてたことですか?
伊藤;〈現象〉っていうのはこの場合はちょっとちがいますね。あれは振り、動きのことがメインだから。動きだけじゃなくて、もっと天気がいいとか雨が降っているとか、お客さんの反応とか、環境全部を含めたことです。

※インタビュー全編は「全地球人に告ぐ」3に掲載されています。



  偶然というのか、前回のインタビューのあと、このプロジェクトの周囲に私のほかに何人かの人間が集まり始めた。しかも、その集まり始めた人々というのは、舞台公演等を作り上げる経験を持っているのであった。経験のない私はじつは半ば途方に暮れていたのであるが、これでプロジェクトは現実化に向けて動き出すことができる。
  その勢いに乗って、彼女らとともに来阪中の伊藤さんと、大阪の街を数箇所、訪ね歩いた。それは会場候補を探すためでもある。
  まず本誌にもすでに数回取り上げられているgraf。家具製作を中心に活動するグループである。家具製作にとどまらず自分らのビル[graf.bld]で料理屋さんや画廊も運営している。伊藤氏はgrafのことが気になっていたという。grafのメンバーも珍しいキノコ舞踊団の公演を見に行くなど、たがいに関心を持っていることが判明した。
  次に、毎月この連載の打ち合わせ等のため私が通っているフェスティバルゲートという施設を、最後に大阪港にある2つの倉庫跡を訪れた。1つはCASOという現代美術の画廊である。大きなスペースを利用し、複数の展示が同時に開催されていることが多い。もう1つは築港赤レンガ倉庫。ここでは美術に関するレクチャーを開催したり、実験的な音楽研究会を開催している。



(珍しいキノコ舞踊団の制作、大桶真インタビューより抜粋)
大桶真;制作はいろいろな人の協力が不可欠です。どういうふうに協力を得られるのか。お金の関係にしてしまうと「お金がないから来なくていい」って話になるじゃないですか。でも、ハナっからお金の関係を抜きにすると「全員来ていいよ」ってことになりますよね。「全員、おいでおいで」って、「弁当だけ出すから」、と。そうすると、現場がにぎやかになるんですよね。すごくたのしい。お金の関係を抜きにすると、そういう効果があります。
  当然、なかには仕事のできない子がいたり、だれよりも働く子がいたりして、みんないっしょってわけではないですけどね。仕事のできる子には、こんどはお金になる仕事を紹介できますが、そうやってどんどん自立していってもらえれば、珍しいキノコ舞踊団をきっかけに、自分の好きなカンパニーを見つけていってもらえればって思うんですよね。といいつつも別に、独立とかしなくてもいいし、
ただ、学生のときの経験、若いときの経験で、「そういや舞台ちょっと手伝ってたことあるや」っていうのは、やってないよりやってたほうがいいと思うんですよ。やらなくてもいいことではないな、と、そう思うんです。

※インタビュー全編は「全地球人に告ぐ」5に掲載されています。



 英語圏の皆さんにはいつもながらの短さで申しわけないが、事態は半年を経て、急展開というか、もともと珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝さん、それに前回インタビューした大桶真さんの口からも出ていたgraf、そのgrafとのコラボレーションが実現に向けて具体的に動き出した。偶然のように、たがいにその名を知っていたのだから、そこから、何かができないか、と思ったわけである。
  来年4月頃に本公演、という当初のプランは変更されるかもしれない。というのは、graf・豊嶋秀樹さんは今回、実際に伊藤さんと会い、あわてて事をすすめてつまらない作品にしたくない、と直感したようなのである。ならばたとえば、4月の公演というのを、キノコとgrafとの出会いの場と見立てて、つまり本公演と銘打つのではなく、もっと実験的な試みとしてやってみる。その後にそれをふまえて本公演へ向けて動いていく、このような息の長いプロジェクトにしたらどうか、というのである。伊藤さんも、その場に行ってやってみないと(キノコとgrafの息が合うか)わからないと言われた。
  珍しいキノコ舞踊団は東京、grafは大阪と、たがいに500キロメートル以上離れているが、その地理的な距離ゆえ、慎重に、と思ったのであろう。また互いの才能を尊重した結果でもあるにちがいない。いずれにせよ、願ってもないことだ。出会うこと自体を、そのプロセス自体を、表現として活用するのだ、というのだから。
 外国の諸君は、少し先ではあるが、航空券の予約について検討しておいてもいいだろう。
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  以上が「英語用ショートバージョン」の半年分です。書き写しながら、改行とか、加筆修正をつい、やってしまいましたので、実際の英訳とはちょっとちがっているところもあります。ご了承ください。



半 -会意、八と牛の合字、牛を二つに分ける意。ひいて広く分ける意となり、また、分けた半分をいう(新明解漢和辞典[第三版/三省堂])より
福永信