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失われゆくもの vol.5 “聖域”(3)
  聖域
・神聖な場所・区域。
・侵してはならないとされる所、また事柄。
→サンクチュアリ[sanctuary]
・鳥獣の保護区・禁猟区
・中世ヨーロッパで、法律の力の及ばなかった寺院・教会など。
・敵の攻撃を受けない安全地帯。また、ゲリラの安全な隠れ場所。
  …三省堂「大辞林」
  sanctuary
— n. 聖所,神殿,寺院;(教会堂の)内陣;(法律の及ばない),避難所,(教会の)罪人庇護権),鳥獣保護区.
  …三省堂「英和辞典」

 昨今、特に耳にする「聖域なき——」というフレーズのおかげ、か、どうかはわからないが、<聖域>にあるものを暴露するのは<正義>、というイメージが、なんとなく出来てしまっているように思う。

 ちょっと待ってくださいな。

 暴露する事も事による、と思うのだ。<暴露>という言葉が不穏当なら、<公開>するという言葉でもいい。現代のマスコミの、なんでもかんでも裏事情を公開する傾向は止まるところを知らない。隠れているところを覗いてみたいと思うのが、人間の好奇心というものだ。知らなければ知らないで済むものを、見せられれば、視聴者も興味を持つ。いや、<聖域>に逃げ込んで、温々としているズルい輩には、鬼平(『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵)のような毅然とした態度で臨んでほしいのだけれども…。
 
 そこで、件の『桂米朝 最後の大舞台〜老いと闘いながら芸の高みを追い求め続ける日々〜』だ。
 番組のクライマックスは、歌舞伎座ファイナルの『百年目』。
 桜宮で旦那と出くわした番頭が、店に帰って来てから、このまま逃げようかどうしようか悶々とする場面。ここで、米朝師匠は、重要なエピソードをとばしてしまうのだが、そのとばしたエピソードをごく自然に後から挿入する、という、見事な技を見せてくれる。
 『百年目』という噺を熟知したコアな落語ファンならいざ知らず、普通の観客にはわからないくらいの、しかも取り返しはついたのだから、ミスとは言えないようなミスだ。それでも完璧を期したかった米朝師匠にとっては痛恨のミスだったろう。誰が見てもそう思えるのに、番組では、その心境を、『百年目』を演った直後の、すなわち、もう一席『一文笛』を演らなければならない師匠の口から聞き出そうとしていた。
 楽屋の大きな鏡に向かって弁当をかき込む師匠をカメラは執拗に追い、しかも、『百年目』の出来について、これまた執拗に尋ねる。
 普通に考えて…、ここは気持ちを切り換えて、もう一席の高座に臨みたいところだ。人間国宝だから、そんな心配はご無用?なわけはあるまい。
 大切な大舞台の楽屋にカメラを持ち込み、照明をガンガン当てて撮影するのも、私にはどういう神経なのか理解しかねる(これが、公演まるごと、番組のための催しならば、許されることかもしれないが)。
 話しかけること自体、憚られる空気が画面からも伝わってくるのに、それがその場にいる質問者には感じられなかったのだろうか。それとも、何かの使命感に燃えて、わかっていながら、敢えてしつこく話しかけたのだろうか。

 制作側に寄せられた視聴者の感想がどんなものだったかは知る由もないが、インターネット上で、いくつかの掲示板を見た限りでは、概ね好評で、素直に、桂米朝という噺家の凄さに感動したという書き込みが多かった。綺麗ごとに済ませていない番組の作りを賞賛する声も多かった。

 でも、ちょっと待ってくださいな。

 私は、桂米朝という人の凄さは、あの番組だから引き出せたものではなく、米朝師匠をドキュメントしていれば自ずと伝わるものだと思う。それぐらい桂米朝という人の成し遂げてきた仕事は超人的だ。
 お弟子さんたちが言う。自分たち弟子一同が全員で束になってかかっても、師匠には敵わないのだと。つまり、持ちネタのみならず、その知識、これまで積み上げてきた業績などなど、これらを弟子一人一人が分担しても、米朝師匠一人の許容量には太刀打ちできないのだ。米朝師匠の弟子は、孫弟子まで合わせると50人にものぼる。
 だからこそ、端正にして、深みのある、あの高座なのだ。それは、まるで、水族館の水槽に使われているアクリル板のように、表から見ると透明な美しさで、でも、おそろしく分厚くて頑丈で、その上、繊細で、作るのに物凄く手間のかかるものだ。

 インターネットで見た感想の中に、こういうのがあった。
 その感想は、好きな芸人の世界の裏を見られた喜びの一方で、見てはいけないものを見てしまったんじゃないかという思いもあり、やはり、越えてはいけない一線があるように感じた、という内容だった。そして、「でもテレビでまたこんな番組してたら見ます。矛盾してますね。こんなもんです。」と、付け加えられていた。

 番組の中の米朝師匠は、歌舞伎座当日だけでなく、取材を開始したと思われるところから終始不機嫌だった。私はどうもそれがひっかかっていた。体調が悪いからといって、カメラを向けられているのに、あんなに不機嫌になるだろうか。
 手間をかけたドキュメンタリーは、膨大な取材ソースを必要とする。それは、とりもなおさず、執拗な密着取材に通じる。歌舞伎座当日のような調子で密着されたのだとしたら、不機嫌になるのも道理だ。

 確かに、米朝師匠の凄さを伝えることには成功していた。しかし、繰り返すが、こういう撮り方でなければ伝わらなかったかというと、否、だと思う。
 私には、米朝師匠のコンディションの悪さの一端には、今回の取材班のデリカシーのなさが拍車をかけているように思えてならなかった。それは、あくまで憶測でしかないが、番組を見ていて、私はそう感じてしまったのだ。

 画面を通じて一番伝えたいことは、事実というよりは真実だと思う。真実を描き出すということは、すべてをえぐり出すことではないはずだ。
 これが、ドキュメンタリーではなく、ドキュメンタリー・ドラマ、つまり、脚本があって、役者が実在の人物<桂米朝>を演じるドラマなら、こういう楽屋のシーンは「有り」だと思う。でも、生身の人間のリアルタイムの出来事なのだ。『百年目』直後の米朝師匠を楽屋の中にまで追っていかなくても、入口でカメラを停めて、その状況を描き出す処理のし方はいくらでも考えられるではないか。それが<仕事>というものではないか。

 <聖域>というのは、どこにでも、なににでも存在すると、私は思う。
 私の心の中にも、大切にしまっておきたいこと、あるいは、人には見せたくないことがある。それは、<秘密>というのとは、ちょっとニュアンスが違う。
 遠慮しがちなところをよくぞここまで突っ込んで取材した、とは、私にはどうしても思えない。それは、観客、視聴者という受け手側の問題ではなく、作り手の問題なのだと思う。私には、まがりなりにも、舞台制作の現場に身を置いてきた者として、大切にしたいものがある。
 「畏れ敬う」という感情が麻痺しているのだろうか。土足で踏み込んではならない場所は、もはや存在しないのだろうか。今、なにかが壊れてきているように思うのは私だけなのだろうか。

 ある程度時間を置いてからなので、冷静に書けると思ったが、やはり少し感情的な文章になってしまった。<粋>やおまへんなあ。
 あの番組の中で、取材班に背中を向けて弁当をかき込む米朝師匠の姿を見て、私は悔しくて涙を流したのだが、聞くところによると、師匠の楽屋弁当の食べ方は、いつでもあんなふうなんだそうな。芸人さんだから、食べ方の早いのは当たり前だけど、それを聞いて安心するやら可笑しいやら。
 それから、もう一つ。
 しつこく『百年目』の出来を尋ねられて、弁当をかき込みながら師匠が連呼した「吉朝に聞いとくなはれ!」。
 弟子の吉朝師匠が、ずっと舞台袖で聴いていた。彼は数ヶ月前に『百年目』をネタ下ろしをしたばかり。大師匠がトチった瞬間、持ち直した瞬間、一喜一憂する吉朝師匠の姿も、カメラは逐一とらえていた。
 それがまた、私を憂鬱にさせたのだが…。
 今年の彦八まつり(上方落語の噺家さんたちのお祭。寄席あり、ゲームあり、模擬店あり、のとっても楽しいお祭)で、桂あやめさんの店の流行語大賞Tシャツ、“吉朝に聞いてくれ!”が大ヒットしたという。
 参りました!これぞ芸人の真骨頂。なんとまあ、<粋>な形で批判してくれたものだ。

石淵文榮

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