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 いったい何をしたらいいのかわからぬまま、少々かっこうつけて前回はしめくくったのですが、あれでよかったのでしょうか。かなり後悔しています。せっかくこの場所に文を書く機会を得たのですから、何か世の中のためになる、有意義なことがしたいと思っていますが、ぼくにできるんでしょうか。東京の、今、まさに世界へ羽ばたきつつある、最前線といっていい場所にいるとぼくみたいな素人目にも明らかなダンスカンパニーが、本当にぼくなんかを相手にしてくれるのでしょうか。あれは夢だったのではないか。いや、たしかに、本人に会い、ありがたい返事をいただくことができました。大阪での公演を約束してくれたのです。その澄んだ声が何より印象的でした。しかし、今ではもう、幻聴であったかもしれぬと、そう思っています。ときめきすぎていたのは事実で、紅茶をもつ手は震え、カップが口に触れない前に傾けてしまい、こぼしてとても熱かったのです。アッチッチと叫んでも、夢はさめなかった。いや、やはり夢だったのだと思います。幻影を相手に、ぼくは2時間という時を過ごしたにちがいありません。何しろ本人に会ったという証拠がありません。たしかにぼくの手帳の5月29日の欄には、伊藤さんのお名前も、紹介していただいた吉田さんのお名前も記入されています。しかしこれが信じられるのか、はたして、事実なのか、どうか……

 試しに吉田さんに電話をしてみますが、通じません。吉田さんはX+という雑誌の編集者でもあります。X+は群像の増刊号です。群像とは何でしょうか。あの群像のことでしょうか。いや、これは毎月出ている文芸誌で、保坂和志とか多和田葉子とか阿部和重とか、今、まさに世界へ羽ばたきつつある、最前線といっていい場所にいる小説家を輩出している文芸誌です。
 ところで、群像の増刊号、といっても、X+は不思議なことに〈女の子のためのカルチャー誌〉と銘打ってあり、事実、ビジュアルをふんだんに盛り込んだ、カラフルな内容で、見た目はちっとも群像っぽくありません。
 ぼくはここに、「男の子の視界の外」という短編を書いたことがあります。これは女の子の一人称で書かれていまして、女の一人称の世界に、男の作者の視線が拭い切れずあちらこちらと点滅するかのように、まさに読者の視界の中に現れては消えるという、30枚くらいの小説です。短いながら表現上の工夫も怠らず、実験的精神に満ちており、何より笑えるところが魅力の作品です。
 また、以前、同じ雑誌でぼくは、「紙の上の展覧会」というのを企画構成したことがあります。これは小説じゃあなくって、まあ読んで字のごとくなのですが、木村友紀、坂知夏、寄神くり、加藤美佳、青木陵子、さとうりさ、100%ORANGE、かなもりゆうこ、束芋、以上9名のアーティストが登場し、彼女たちに見開きの2ページを自由にディレクションしてもらいました。従来の、紙媒体でありがちな、紹介だけしてホイおしまい、というのを何とかしたかったのです。なかなか売れ行きもよかったと聞きます。このページも、ですから、紹介に終わりたくない……ぼくは何をしているのでしょうか。ぼくじしんが自己紹介をしていては仕方がないではないか。いや、この2つの仕事の担当編集者は吉田さんであって、彼によってぼくは伊藤さんに会うことができたのであり、したがって、彼と連絡が取れれば、すべてが明らかになるはずです。しかし、ちょうど今、校了とかで忙しい時期で何度かけてもお留守番サービスに接続されてしまう。

 とにかく、もう始まってしまったのですから、このまま行くしかありません。契約は来年の3月までです。食らいついて行くしかありません。そのためにはまず、相手をよく知ることです。世界の強豪と戦うには積極的なプレーをしてこそ、だというのは、すでに十分に知ったところです。そこで以下に、珍しいキノコ舞踊団の本公演のリストを、第1回公演から示してみます。

1 『散歩するみたいに。』(1991年)
2 『will be,will be』(1992年)
3 『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』(1992年)
4 『これを頼りにしないでください。』(1993年)
5 『Three pieces of orange.』(1994年)
6 『〜の価値もない。』(1995年)
7 『彼女はあまりに疲れていたのでその喫茶店でビートをとることはできなかった。』(1995年)
8 『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』再演(1996年)
9 『電話をかけた。あと、転んだ。』(1996年)
10 『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。〜ジュリロミREMIX』(1997年)
11 『私たちの家』(1998年)
12 『私たちの家typeA;in a museum』(1998年)
13 『私たちの家typeB;monotone』(1998年)
14 『牛乳が、飲みたい。』(1999年)
15 『あなたが「バレる」と言ったから』※(1999年)
   ※『素敵について』『holiday bus pass by』の2本立て
16 『ウィズユー0.1』(2000年)
17 『フリル(ミニ)』(2000年)
18 『ウィズユー1』(2001年)
19 『ウィズユー2』(2001年)
20 『ウィズユー3』(2002年)
21 『フリル(ミニ)wild』(2002年)
22 『ウィズユー1.1』(2002年)
23 『New albums』(2002年)

 書き写しながら、大阪での公演がないのがやはり気になります。このうち、関西圏での公演は、『私たちの家typeB;monotone』の神戸、『ウィズユー2』の京都だけです(ただし『ウィズユー2』は伊藤さんのソロ公演)。大阪は、残念ながら、ありません。大阪の公演がないのはなぜでしょうか。何か意図が隠されているのでしょうか。もちろんそんなことはありません。なぜなら来年、約束してくれたのですから。このあいだ会ったのが、現実ならば……、夢でないならば……

 そもそもなぜ、珍しいキノコ舞踊団、だったのでしょう。なぜぼくは、キノコの公演を大阪で見たいと思い、また、伊藤さんに会いたいと思ったのでしょう。
 たとえばふだん大阪で見れない、ということであるなら、東京にはダンスカンパニーはたくさんあるのであって、とくにキノコでなくたっていいはずです。それに、別に東京である必然もないでしょう。外国だっていいはず。また、ダンスとかぎらずとも、舞台芸術全体に視野を広げることだって可能です。
 いや、芝居とダンスは同じ舞台芸術とはいえ、かなりちがうものです。芝居は戯曲というかたちで再現可能ですが、ダンスは芝居と同じようにはどうやったって再現できません。
 むろん芝居の再現性は、新たな創造と言い得るものであって、厳密な意味での再現とは異なります。しかし保存という意味に縮小すれば、芝居の、舞台の上での言葉は戯曲というかたちに姿を変えて、消えずに残されるといっていいでしょう。
 ダンスは、戯曲という姿をもたない以上、常にライブであることが要請され、舞台が終わると消えるほかありません。

 初めてキノコの公演を見たときも、そうでした。藤沢で、『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』(再演)を見終えたとき、ほとんど舞台で行われたことを覚えていない自分に、驚いたものです。
 ある動きとその次の動きを目で追っていくうちに、前の動きを忘れてしまうのです。現在だけが常に存在し、「過去」になった動作は忘れてしまう。そのことを強調するような振り付けになっていたように思います。そうかといって、全部忘れてしまうのでもありません。『もうお陽さまなんか出なくてもかまわない。』の場合なら、最後の、舞台の奥に向かって登場人物たちがふたたび、次々と舞台に現れる場面。背中を向け、一人ずつ手を握り、しだいに舞台の幅にそれが近づくという場面は、忘れることができません。
 キノコの作品はまさに、忘れさせ、忘れさせない、というその具合が絶妙だったのです。ほとんどそれは、幻影のように、です。
『私たちの家』以降の作品では、ダンサーは自然な表情をたたえ、ごく日常的な振り付けがほどこされ、さらにダンサー以外の人間も舞台上に呼び集められたりします。その見た目の印象は、以前とだいぶ変わったといえます。日常に近づいた、という言い方もできるかもしれません。あるいは、覚えやすい振り付けだともいえそうですが、記憶に残りやすくなっていても、忘れてしまったり、ちがうものとして記憶していたりします。このようにキノコは、今、記録の不可能なダンスという世界で、ひとつひとつの具体的な振り付けによって、

 ここまで書いたところで、1枚のFAXが流れてきました。名前を見ますと、伊藤千枝、と書いてあります。吉田さんに電話をかけるのをあきらめたあと、言いませんでしたが、伊藤さん宛にFAXを出したのです。まさか、このあいだ会ったでしょうか、などとは書けないので、また会いませんか、という内容にしました。いちかばちか、です。返事を見ますと、時間と場所(とその行き方)が書かれてありました。時間と場所…… どうやら夢などではなかったようです。いや、まだ油断はできませんが……
 なんだか途中みたいですが、この続きは来月の、伊藤さんへのインタビューというかたちで再開しようと思います。そのほうがどう考えたっておもしろいに決まっているんですから!

福永信
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