log osaka web magazine index
5月23日(金)
がんばって早起き。朝8時30分にJR大阪駅へ。9月に大阪市立美術館で開催される『円山応挙展』のプレ・イベントとして、兵庫県の香住にある大乗寺に行く。ここは、応挙寺とも呼ばれていて、円山応挙が描いたふすま絵がたくさんあるのだ。香住まではバスを連ねていく。お弁当やお菓子、ビールまでついている。公立美術館で、かつてこのようなプレ・イベントがあっただろうか! すごいぞ。
バスの中では、学芸員さんや同行の応挙研究家のお話があり、その後は、これまで放映された応挙番組のビデオが3〜4本流された。面白い。同じ作品でも、時代によって写し方が違う。屏風などはその典型で、古いものは絵画のようにぺたんと平面にして撮影している。最近、放映された番組は、屏風らしく立てて、面ごとの視覚の変化も写したりしている。捉え方、見え方が変わってきている。「見る」は、時代ごとに揺れ動いている。
大乗寺は、素晴らしく面白かった。普段は入れない座敷に入り、応挙の時代と同じように、応挙のふすま絵に囲まれて、正座してみる。目がす〜っと移動していく。なんというか、視線がす〜っとふすまの絵にそって走っていくのだ。
一番面白い部屋のふすま絵は、下座に座るとす〜っと視線が湖の上を走って、やや上方の、地平の彼方まで視線がのびてゆく。で、そのふすま絵を背後にした上座の人は、なんだか威厳のある偉い人のように見えるのだ。反対に、上座から下座を見ると、里山の風景を上から眺め下ろす視点になり、なんだか自分が偉くなった気分になる。すごいなあ。
車内で見たビデオでの学習によると、円山応挙は、覗きカラクリの絵師から出発したらしく、人々の「見る」欲望に応える絵を描き続けたようだ。写実の祖などと言われるが、幽霊や龍なども描いている。架空のものすら、人々にとって「見たい」と願う姿にして、露わにする。「見る」は面白い。

5月24日(土)
さすがに疲れがたまっている。家で洗濯。掃除。まるちゃんのご機嫌とり。冷蔵庫の食糧補給。

5月25日(日)
変則的に、日曜日にフィールドワークの授業をする。京都芸術センターでのワークショップ「場所を体験する」に参加。ナビゲーターはアーティストの扇千花さん。元明倫小学校だった京都芸術センターを探検し、センター内にある“物”をセンター内に“隠す、移動させる”という内容だった。学生達の反応を心配していたのだが(クールなヤツラがいるし)、けっこう楽しくやっていた。大広間の畳を移動させる、ロッカーの隙間にほうきを入れる、エレベーターの中に机と椅子を持ち込み、一種のパフォーマンスをする、「本番中につきお静かにお願いします」の看板をトイレに持ち込む……やっぱり美術系の学生達は、作ること、何かを仕掛けることが好きなのだと実感。うーん、一方的にお話を聞くだけじゃなくて、学生達が獲得していくような授業が作れるとよいなあ。私たちが参加したので、ちょっと人数が多くなりすぎて間延びしたところもあったけれど、いい感じで終了。その後、大学へ行き、学生の岩永さんが企画した展覧会を見る予定だったのに、すでに時間切れ、終了していた。で、同じく黒瀬くんの企画した展覧会へ。こちらはやっていた。ふーむ。なんだか懐かしい気分になってしまった。「絵画とは何か?」「彫刻とは?」「芸術とは?」と問うことがテーマの展覧会。ふーむ。私が学生の頃と同じ。私はその答えを見つけたわけじゃないけれど、それはその問い自体が答えともいうようなメビウスの輪的なぐるぐる感がある。さあて、黒瀬くんはこれからどうしていくのかな。

5月26日(月)
『ぴあ』締め切りにキリキリまい。夕方には終わるだろうと思ったのに、結局、夜へ。7時からのチョキチョキミーティングにちょっと遅刻。7月の市民鑑賞教室への出演と、今後について話し合う。

5月27日(火)
朝からリハビリ。まだ、ある一定以上の動きをすると痛い。なんというか、ひきつるような痛み。皮膚の下で筋肉がぎしぎしとのびている。リハビリの先生にほとんど無理矢理のようにのばされる。痛い! あー、こんなに時間がかかるとは思わなかった。フェスティバルゲートへ。remoに居候をさせてもらい、いろいろ雑用や仕事をこなす。とても仕事がすすむ。深夜12時前に雨ちゃんと共に帰る。自転車を買ったので、家まで20分ほどで帰れるのだ。快適。

5月28日(水)
国立国際美術館へ『高柳恵里』展の記者発表。そのままインタビューへ。高柳さんの作品は、ガラスコップに鉛筆をたてかけている。水のはったタライと足拭き2枚、文庫本を何冊か重ね合わせている……。彼女の作品は、そんな風に、非常にささやかな、だけど毅然とした作為で満たされている。こちらが投げかける質問に、高柳さんは実に誠実に、しんぼう強く答えてくれる。妥協せずに、きっちり、きっちりと、答えてくれる。それは、私たちが普段使っている“美術の言葉”でもないし、“日常の会話”でもない。なかなか、私と高柳さんの言葉がシンクロしない。微妙なズレが続いていく。ふと、そのズレを縮めようとするのではなく、ズレの距離を測ろうとしたら、少し安定してきた。お互いに違いを感じながらも、共に生きていくこと、明日に向かう意志を持ち続けることは可能かもしれない。そう思えた。彼女は現代アートの中では、ずいぶん変わったものらしいけれど、高柳さんのような人が産まれ、生きている現代アートは、けっこう素敵じゃないの、と思えてくる。

5月29日(木)

フィールドワークの授業日。今日は、大学でのお話会にする。テーマは、「見ること/見えないこと」。事前にレジメを作っておくつもりが、さっぱり出来なかった。一応、私がひとりで喋り続ける。ベネチア・ビエンナーレ→ローザンヌのアール・ブリュット美術館→和歌の浦の丘アートプロジェクト→木陰の共有→グループ・ホーム「サラ」での折元立身のプロジェクト→円山応挙→文楽。。。へとパソコン上のスライド写真を見せながら、えんえんと話し続ける。なんというか、焦点の定まらない話になってしまったけれど、私が言いたかったのは、「見ているもの」は、事実としてあるわけでなく、人がそのように「見ようとしているもの」でしかない。常に、この世界には「見えないもの」がある。それは、「見ようとしていないもの」も含まれている。。。というようなこと。学生達に伝わっただろうか。その後、歌舞伎と狂言で同じ演目をやる、という舞台芸術学科の企画『茶壷』を見る。着物姿のおばさま達がほとんど。学生はちらほら。これが、大学の企画の一貫としてあるのは、なんだか隔世の感がある。歌舞伎がけっこう面白かった。舞台の近さもあるだろうけれど、顔や仕草の表現が妙に大げさで、繊細で、文楽とはちがう、変な感じを受けた。なんというか、“生っぽい”。当たり前か、生身の人間がやっているのだから。
会場を出ると、カフェで後藤繁雄さんと市原研太郎さんのトークをやっていた。来年からスタートするアート・プロデュース学科の創立準備の一貫らしい。フィールドワークの授業を取っている学生達もいた。大学ってすごい勢いで変わりつつある。生き残り大作戦。私なんか年数回しか行かないから、さっぱり浦島太郎で、きっとクビになる時は一番最初だろうなあ。

5月30日(金)

英会話の後、病院へ。健康診断書を書いてもらいにいく。来年の3月から大阪成蹊大学でも半期だけの非常勤講師をする予定。で、最近は、結核が流行っているので胸のレントゲンだけ必要らしい。結果は、異常なし。煙草もすってないし、肺は(だけは?)ピチピチ健康だ。またもやremoに居候し、仕事する。夜6時。雨ちゃんと一緒に自転車にのって、キリンプラザ大阪の『生意気展』のオープニングレセプションへ。なんだかすごくたくさんの人で盛り上がっている。いつもの顔ぶれもあるし、違う人も。生意気は、イギリス人とニュージーランド人の2人組のユニットで、デザイナーでもあり、アーティストでもあり、ステージ・デザインもやっている。展示物というか、館内にあるのは、100円ショップで売っているようなカラフルな小物がぞろぞろぞろ。安っぽくて、大量生産されていて、壊れやすそうな、雑多なもの。これは、アートか? ……アート作品というより、現場。生意気の頭の中みたい。多分、これが彼らのコンセプト。しかしまあ、来週はここでフィールドワークの授業をするのだ。どうなるのかな。ドキドキ。

5月31日(土)
ぞろりと起き上がり、自転車を飛ばす。雨ちゃんと国立文楽劇場へ『素浄瑠璃の会』へ。だんだん私たち文楽チョキチョキも、“通”になってきたなあ。パシンと響く三味線の音に感動。太棹三味線は、太鼓のような破裂音を出す。激しく、鋭く。耳が慣れていくほどに、どんどんすごさが見えてくる。いや、聞こえてくる。大夫は、声によって好みがあるなあ。上手い下手じゃなく、声の質によって好き嫌いが出てくる。声というのは、艶めかしい要素も含んでいる。フェスティバルゲートに戻り、上田假奈代さんが主宰するcocoroomのオープニング・レセプションへ。たくさんの人で部屋はギュウギュウ詰め。さすが人気ものだな。詩の朗読会の後は、プリン斎さんのお料理でパーティ。これがまあ、美味しいこと!!! おにぎりだけでも何種類あったか。鳥の丸焼きもあるし、ハンバーガーも、サンドイッチも。えんえんと食べ続けてしまった。
山下里加

HOME