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+ 篠原雅武

1975年神奈川県横浜市生まれ。京都大学総合人間学部卒業後、そのまま同大学院人間・環境学研究科へ。現在博士課程。

2 新世界アーツパーク事業

[「一般市民が自由に往来できることが前提である集客商業施設内に、現代芸術に関するNPO活動を複数点在させ、都市の日常にアートコミュニティを築く」(注5) ことが目的とされる。2002年10月に本格始動。浪速区内の遊興施設であるフェスティバルゲートの空きテナントを大阪市が料金負担し、大阪市内を活動拠点とするアーティスト集団のために無償で貸す。現在、コンテンポラリーダンス、映像、音楽を専門とする三団体が入っており活動中である。]

 

(a)フェスティバルゲートの現状
 
 フェスティバルゲートは、娯楽施設である。上述の、アーレントの規定に従って厳密に述べるなら、そこでは文化は求められていない。あくまでも、来る者の気晴らしのための娯楽施設であって、文化のための施設ではない。
こういう施設の空きテナントが、文化のための現場へと転用されているのである。この転用を正当化する根拠については、次のように述べられる。
フェスティバルゲート株式会社による営業活動のための文章には、「年齢・性別を問わず、多くの人たちがそれぞれのライフスタイルの中で集い、味わい、くつろぐ・・・・、ご来館いただくお客様の満足にお答えし親しまれるフェスティバルゲートとして21世紀を歩んでいく所存です(強調は筆者)」と述べられている。『アクションプラン』では、この、【それぞれのライフスタイル】という文言が、次のように転用される。すなわち、かつての、余暇のスタイルが画一的に指定され、受容者に、一方向的に娯楽商品が供給されるという状態と異なり、21世紀を迎えたフェスティバルゲートでは、「各々ライフスタイルにあわせた余暇をアミューズメント空間を利用して楽しんで欲しいという運営姿勢=許容型に変わろうとしている」(注6) と述べられる。
つまり、『アクションプラン』では、フェスティバルゲートについて次のように認識される。すなわちそれは、元来娯楽向けの空間であったが、その空間の活用法に関しては、次第に娯楽だけでなく、生活者の嗜好の多様化に応じ、娯楽とは異質な活動をも許容する施設へと変化しつつあると。この認識を踏まえ、施設の一部を、娯楽と区別され、それとは異質な文化活動の拠点へと転用することが目論まれるのである。
けれども、そもそも娯楽施設としてのフェスティバルゲートとは何か。その現状はどうなっているのか。先に概略的に述べておく。

 
・通天閣の南側に位置する。地下鉄、JR、南海電鉄、阪堺電軌、主要幹線道路が集中する、交通の要衝に接している。地下鉄の駅(動物園前)からは、地下道で直結である。JRの駅(新今宮)とも、道路一本隔てただけであり、アクセスは容易。
・平成元年の、「交通局霞町車庫跡地開発プロジェクト・土地信託事業(注7)計画提案競技」で選ばれた、東洋信託銀行等の四信託銀行の案により開発が行なわれ、1997年7月18日にオープン。
・集客のための施設として、賑わいの拠点となることが期待された。周辺環境については、「都市構造や市民生活の変化とともに往年のにぎわいが著しく減少している状態にある」と、認識される。そして、「この施設は、「行ってみよう」と思わせるいわゆる「わざわざ型」の集客要素を持つ構成が重要となる。しかもその魅力は、多種多様に広がっていく利用客の好奇心を満たすものでなくてはならない」と述べられる。つまり、周辺環境との関わりからすると、集客のための魅力(娯楽的、遊興的要素の強化)に工夫が不可欠であると述べられている。
・施設は、都市型立体遊園地である(八階建)。「海底に沈んだ古代都市」をテーマに(たとえば二階は水の都ヴェネチア、三階は1950年代のアメリカ西海岸(?)というように)、大きく分けて店舗部(物販と飲食)と、メリーゴーラウンドやジェットコースター等、アミューズメントパークにありがちな遊具施設の部分から成る。六階はゲームセンター、七階は映画館である(注8)
 
 けれども、現在フェスティバルゲートを歩いてみると、まず、人通りが極めて少ないことに気づく。空きテナントも目立つ(特に、三階以上)。2002年2月15日の読売新聞には、次のような記事がある。「フェスティバルゲートは開業した九七年度、六百五十五万人が訪れた。しかし二〇〇一年度は十二月で約三百五万人と低迷。テナント(一万四千平方メートル)の入居率も昨年十一月末現在で64%と伸び悩み、二〇〇〇年度決算の累積赤字は七十六億円に上る」。娯楽のための集客施設として、機能を十分に果たしていないことが、この記事に明らかである。
 
 2001年の、中部開発センターが行なった視察をふまえたレポートには、フェスティバルゲートの課題として、次のように述べられている。「複合化した施設にもかかわらず、規模、質ともに競争力が不十分である。商業施設と遊戯施設が複合した施設ではあるが、商業施設としても遊戯施設としても中途半端で、競合相手が多い大都市圏にあっては、十分な競争力を持ち得ていない。他にはない特色を打ち出していかないと競争が激しい大都市圏で成功するのは難しいと考えられる」(注9) と。
フェスティバルゲートは低迷状態にある。魅力が無いからだ。その理由については、上の引用箇所に述べられたこと以外にも様々あげることが出来るだろう。ここでは立ち入った考察はしないが、娯楽施設に固有な問題として、機会があったら別途考察を進める必要があるかもしれない。
 

(b)remo: record, expression and medium-organization(NPO法人 記録と表現とメディアのための組織)
http://www.remo.or.jp/

 フェスティバルゲートの四階に位置する。正式に発足したのは、2002年10月。極めて特異な組織である。以下、次の四項目毎に紹介してみたい。(1)問われ、試みられていること。(2)成立の経緯。(3)運営方式(組織としての)。(4)現時点での具体的な成果(活動実績)、および今後の見通し。今回は、(1)について、簡略に述べてみる。

(1) remoについて、趣意書に、こう書かれている。「現代生活に溶け込んでいるメディアには一方的に発信される市場開拓を目的としたものが目立ちます。こういったいわゆるマスメディアと呼ばれるものの動向は、本来の人間のコミュニケーションツールとしての『メディア』の機能を狭めているのではないでしょうか」と。これは現状認識である。そして、次のように述べられる。「この組織では、特に近年目まぐるしい発展が見られる映像や音を用いた「個人を発信源とする表現」に注目しています。これらは、具体的なメッセージや物語でないことが多く、既存の装置(テレビ、映画館)では取扱いにくいものであるためにビジネスとしては成立し難い状況にあります。しかし、そのことは「個人を発信源とする表現」に価値がないということを示しているわけではないと考えます」と。「個人を発信源とする表現」の価値あるいは社会的意義が、remoで問題とされ、研究、実験等の対象とされるのである。

マスメディアの代表として、ラジオやテレビをあげることができる。複数の視聴者に、音声あるいは画像でもって、情報が一方向的に届けられる。
 情報は、遠く離れた国での事件、流行のファッション、スポーツ中継、テレビタレントの色恋沙汰など、様々である。
一方向性以外にも、これら情報のメディアの特性として、距離の克服をあげることができる。すなわちそれらは、視聴者が現に居る場所から離れた所で収録され、それらの間の物理的な距離を乗り越え、届けられる。遠く離れた国も、近所の繁華街も、画面上に映し出される限りにおいて、実際のところ間に介する物理的距離は意識されず、視聴者にとって等距離である。
ところで、このように、発信現場と受信の場所との間の距離を乗り越えることを可能にする媒体は、ラジオやテレビに限定されない。
たとえば、電話がある。あるいは、ここ最近で急速に普及しているインターネットがある。これらはテレビ等、一方向的なメディアと異なり、受信者と発信者間のやりとりの双方向性を可能にする。距離を乗り越える。その限りではマスメディアと同じである。けれど、電話やインターネットは、やりとりの双方向性を可能にし、かつ、複数個人の間において、マスメディアとは異なる情報伝達方式を成立させる。すなわち、マスメディアの場合、発信者は少数であり、受信者は多数である。その間の一方向性とあいまって、情報伝達の形式が、支配者と被支配者との間の関係と、同一のものとなりかねない。これらと違い、殊にインターネットの場合、個々人の間に多様で錯綜したやりとりを可能にする。
remoでは、情報伝達のためのメディアが、研究や実験の対象とされる。けれども、マスメディアとは異なって、個人間をつなぐメディアが対象である。個々人の間の、多様で錯綜した関係において、音声あるいは映像として発される情報を、「表現」として把握し、その価値を考察することが目論まれている。

 
 このような組織が、現今どういう意義を持ちうるのか、次回、代表の甲斐賢治の談話を基に、考えてみたい。
 

最後、remoについて、筆者が思いついた幾つかの疑問点を列挙し、終わりとしたい。
・ 他の伝達手段(声、文字、身振り)と、映像および音声(情報機器が伝達する)との違いは、どういうものと把握されているのか。
・ 多数発される映像や音声のうち、どういうものを「表現」とみなし、何かしら価値を持ち得るものとして扱うのか。「表現」とそうでないものとの区別は、どういう基準にもとづくのだろうか。それとも、すべてにおいて「表現」と見なし得るものを見いだそうとするのか。
・ 伝達者が置かれ、「表現」がなされる状況の違いは、考慮されるのだろうか。それがたとえば、戦時のものであるならば、ただ「表現」された映像そのものだけを考察の対象とするだけでは見えてこないものもあるのではなかろうか。そういう、「表現」行為と状況との関連について、考察は及ぶのだろうか。
・ 発信者と受信者との関係。発信者が「表現」に込めた意図と、受信者がそれから受け取る意味のズレ。あるいは、そもそもたいした意図もなく為された「表現」に、後になって意味が付与される。こういったことも、想定可能である。こういう事態について、どう考えられているのか。

 

[次回(第二回)は、原口剛(大阪市立大学大学院文学研究科博士課程人文地理学専攻)が担当します]

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