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人間のエネルギーを前提とする 松岡永子
 大阪野外演劇祭のラストを飾るにふさわしいスケールの大きな舞台。
 丸太で組まれた大きく段差のある客席。奥行きを感じさせる舞台装置(犯罪友の会は最後まで舞台後方を解放しない。が、十分な空間を感じさせる)。細やかに作られた美術、衣装。的確な照明。堀割は本水。などなど......。
どれか一つを取り上げて特別に論じたいとは思わない。どれも十分な力を持ちながら、だからこそ、そこに役者が立つための背景として退き、役者を支える。
 当然役者にもそれだけのテンションが求められる。今回、客演二人(デカルコ・マリー、大場吉晃)と舞台に立つのは十年ぶりという「新人」(玉置稔)が加わり、役者の平均年齢を押し上げているが、さすがベテランにはそれだけの貫禄がある。受けて立つ若手もよく頑張ってる。十手を持って真っ直ぐに立つ中田彩葉には図太いまでの骨太さがあるし、役柄のせいかこれまでやや線の細い印象のあった羽田奈津美も、きっぱりした悪女ぶりがカッコイイ。
 こういう舞台は、本当はその場に立ち会わないと意味がない。ビデオで見ても、言葉で説明されてもわからない。目の前に存在する人間のエネルギーを肌で感じて、はじめてわかるものだ。

 力不足は承知の上で、とにかく話の説明から。

「一本柳のお糸」シリーズ。
 気弱な夫に逃げられ、中風の父親の跡を継いで十手持ちになったお糸は、洗い張りの仕事の合間にお上のご用を勤めている。ちょっとしたゆすり・たかりは当然の余録と心得ている。なかなかのやり手だ。
 江戸から明治に変わった頃の大坂貧乏長屋。政府は変わっても貧乏暮らしに変わりはなく、人々は日々の暮らしに追われている。政情不安で人心不安。ベロベロお化けが出ただの(オープニングのベロベロお化けはデカルコ・マリー。うーん、さすが。暗黒舞踏系の動きを久しぶりに見た)河童を見ただの大いたちだの、妙な噂ばかり。
 堀割に幾つかの死体が浮かぶ。小商人が集金帰りに襲われる連続強盗殺人事件。捜査を始めるお糸。
 とにかく一癖二癖ある連中ばかり。わけあり風の江戸から流れてきた寿司屋、居合いの達人である按摩、足は洗ったよという女掏摸、十銭均一ファンシーショップ店長の優男...あやしいといえば皆あやしい。八幡の藪知らず。

 結論を言えば。玉置稔演じる浪人が辻斬りだったのだが、彼は周囲の人間とは異質である。悪党でない、という点において。
 なんともみすぼらしい様子の彼はある小藩の侍だった。古文書調べの閑職で十八年間の江戸詰めの後、鳥羽伏見の戦で上方に来た。維新後、こちらで就職活動をしているのです、という。就職活動といっても昔の知り合いを訪ねては冷たくあしらわれているばかり。
慎み深く、真面目。閑職に追いやられていたことについても、親代々の仕事で他に取り柄もありませんし、と力なくいう(たしかに安定した社会で剣の達人だということなど取り柄にはならない)。地味にこつこつと勤め上げる典型的小市民タイプ。

それでも藩が無事だったらそれなりの老後があったかもしれない。停年後、ただ老いるためだけに一緒にいる夫婦のように、妻と二人、何もなく穏やかに暮らしたのかもしれない。しかし維新により、生活の保障もないまま放り出された。

 彼の妻は極貧生活の中でも士族の誇りを失わない。夫の就職活動を励まし支える。
その裏で彼女は身を売って実家の借金を返している。夫は知っている、という。官吏登用など無理だと知りながら口には出さず真面目な夫とけなげな妻を演じているように、お互い何もかも知りながら演じ続けているのだという。この上、田舎での百姓仕事の苦労なんか嫌だ、わたしはあいつを捨ててやるんだ、という。

十八年間の単身赴任を甘受した夫を、要領が悪い、馬鹿だ、という。しかしその間、夫の居ない婚家で舅・姑に仕えてきた彼女だってそうとうなものだ。
彼女は夫を愛しているのだと思う。でも、その夫と、自分自身の真面目さ・不甲斐なさとを同時に見限った時、彼女には新しい道が開ける。

 妻が出ていった時。彼は、そのほうがいい、あの人はやり直せる人だから、という。

彼以外、周囲の人間はみな小悪党であり、小悪党であるという自覚のもとに居直っている。
 お糸は、わたしはお上の威光をかさにきて皆さんにいやがられることをやってる人間だから打ち壊しは怖い、という。
 按摩の市は高利貸しをやり女を転がして甘い汁を吸っている。その底に自分を捨てた母への想いがあるとしても、そんなことを言い訳にはしない。
 彼だけが悪党になることを肯定できない。実直で真面目だ。だから身動きが取れなくなっている。維新直後の混乱期、実直さなど役に立たない。自分は悪党だと居直れないなら、剣の腕など利用価値もない。

 功を焦って単独で取り調べに来た同郷の若い巡査に斬りつけた彼は、たいした仕事もないまま閉じ込められていた書庫で何百何千の幻を斬って正気を保ってきたのだと語る。現実の殺人のきっかけは事故のようなものだったが、人斬りは癖になるものだ、と語る。語ることによって、彼は自分を人生の主人公だと思う。
 捕り手に囲まれた彼は命など惜しくない、と華々しく斬り死にすることを望む。

鳥羽伏見の戦を、むしろそれに付随した祭りの熱気のようなもので捉えて「楽しかった」といい、「否定すべき記憶のない若者はまぶしいよ」という彼に、つい別の寓意を見てしまいそうだ。しかしそんな無粋な真似はやめておこう。舞台を見る時は、現に目の前にあるものだけでいい。野外劇のエネルギーはそんな気にさせてくれる。

 もちろん、彼にはチャンバラ映画のような格好良い死に場所など用意されてはいない。凶暴な野良犬のように、町内の人々に棒で追われ石で追われて堀に追い落とされるだけだ。濡れ鼠になり堀から這い上がった時、彼は死にたくない、田舎で両親が待っていると叫ぶ。妻に戻ってきてくれと叫ぶ。
諦めたようなことをいい、納得しているといい、悟ったようなことをいう。でも全然諦められてなどいない。未練がましく、ぶざまでみじめだ。その姿をそのまま晒すことがとてもいいのだ。
それは、アンチヒーローなんていうヒーロー像の逆規定にすぎないものではない。小悪党にすらなれなかった、ふつうの人の姿だ。

 犯罪友の会の芝居はたいてい小悪党の話だ。これまでわたしが見たものでは、その小悪党に対比されるのは、やさしげな顔をし人当たりの良い巨悪だった。小悪党の巨悪の違い。それは、殺人による一人の死は流れた血と痛みで語られるのに対し、数千数万の戦争による死はただ数字で語られるのに似ているかもしれない。世間に後ろ指さされている小悪党と違い、自分がやっているのは弱者を痛めつけることという自覚もなく(ないふりをして)、私は皆さんのために尽くしています、全体のことを考えて働いているのです、などと平気で言うやつ。
 今回は少し違う。巨悪の直接の造形はない(藩とか政府はそうだといえばそうなんだが)。
 慎み深く遠慮がちで、正当に自分のものである権利すら主張できない。他人を傷つけ奪ってでも自分の飢えを満たそうという覚悟もなく、かといって飢え死にする覚悟もできない。自分を納得させるため、いろんな言葉を口にし、でも、本当に割り切ることはできない。そういう、ふつうの人、は犯罪友の会の芝居ではめずらしいと思う。今回はそういう人物を負える役者がいた、ということだろう。人間の存在が、やはりすべての前提になるらしい。


キーワード
■大阪野外演劇祭
DATA

同公演評
捕物帖を借りた現代の告発 … 西尾雅

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