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美しいという言葉で美しい風景が表せないように悲しいという言葉で悲しい気持ちは表せない 松岡永子
 美しい。美しい、とても美しい。
 廃墟に生い茂る森。滝の水は川となり、こちらとむこう岸を分けるように流れる。架かっている橋の縁には貝殻が敷き詰められている。予想通り作り込まれた舞台。雨が降るのも、床から光が射すのも、銀箔が舞うのも、なにもかも美しい。チラシもエントランスギャラリーの作品もHPも。
 で。どうして物語を志向するのだろう。

 あんまり説明したくはないが、物語は箱船から始まる、らしい。
 箱船に乗り、終末から漂着した一族はふたつに分かれる。その地にとどまり、箱船そのものを神として新しい都市を築いた光の一族。預言に従い、船を離れ彼方にあるはずの約束の地をめざした者たちは旅の苦難の中で死に闇の一族となった。亡霊となった闇の一族の魂は救いを求めて、子どもを攫い黒い鳥に変える。子どもを失った光の一族は、災厄の原因を預言に逆らって築いた都市だと思い、それを放棄する。神であった箱船は朽ち、寄生植物の樹海となる。樹海は人を遠ざけ、妖精や精霊、魔物を住まわせている。光の一族の魂である精霊と闇の一族の魂であるモノノケ。やがて、交わることのないふたつの魂を繋ぐ存在が、生まれる。それはまだ幼く弱い。
 舞台はここから。
 人間が森に迷い込んでくる。その男の祖父は、幼い日森で精霊に出会い一本の枝をもらったという。その枝で足の不自由な孫のために杖を作った。男は、精霊の森に骨を埋めて欲しいという祖父の願いをかなえるため、杖を突きながらやって来た。そして子どもと出会う。それは口がきけない。精霊やモノノケとも出会う。精霊は男には理解できない言葉で話す。モノノケは男に襲いかかるが子どもによって守られる。子どもと心を交わすため、男は杖の頭で笛を作る。祖父の想いが男の足になったように、男の想いが子どもの声になる。声を手に入れた子どもはモノノケと精霊を繋ぎ、世界を開き船を出航させる。すべてが去った後、残された笛を拾うと、それは遙かな時間を経たもののように男の手の中で朽ち果てる。

 精霊の台詞はパンフレットに日本語訳されている。子どもの声にならない言葉は、ラストに各シーンを振り返る形でスライドで見せてくれる。前提となる神話、人物紹介はエントランスギャラリーに展示してある。そんなにしてまで物語解説を補うのは、なぜなのか。
 物語は舞台上で示せるものだけでいい。美しい舞台を成立させるため以上の物語説明はいらない。物語がいらないのではない。説明がいらないのだ。特に言葉での。
 更に言えば。船の夢見るシーン。錨を上げる幻。歯車の回る影。揺れる振り子。全体の中でも美しいこのシーンに人間はいらないかもしれない。揺れるわずかな光の美は人間に照明が当たると効果が薄れる。
 でも。人間を省いたりは決してしないだろう。いつも人間を物語の中心に置く、その率直さ、ロマンチックなところが好ましい点でもある。ただ、言葉での表現には、その率直さが未熟さとして表れてしまう。中でも「遙かな」とか「悲しい」とか、大雑把な形容には鼻白む。耳障りだし目障りだ。ヴィジュアルの緻密さに言葉は全然追いつかない。(わたしも「美しい」なんて雑な表現をしているが、そんな言葉であの美しさを表現することはできないという覚悟はある)

 美しいものは美しいだけで充分。存在に説明はいらない。

 一方、物語をはっきり解りたいという観客もいるだろう。あのくどいまでの説明はその要求のためだと想像はつく。彼らのためには物語をわかりやすく解説したプリントでも用意しておけばいい。だいたい観客も神様じゃないんだから、全部を理解させてもらってやっと満足する、なんて僭越な態度はやめよう。美しい場に立ち会えたときには、それに出会えた幸運を想えばいい。

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■大阪野外演劇フェスティバル
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