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天守物語 松岡永子
 泉鏡花らしい、綾錦の彩鮮やかな世界。
 それを表すのに、例えば大舞台で豪華な舞台装置を立てる方法もあるだろうが、ここには何もない。正方形の台を舞台とし四隅に朱の柱を立てて結界としているだけだ。
 鏡花はどちらかというと歌舞伎だと思うが、この舞台では歌舞伎の過剰さを排し、能に近いシンプルさを追求する(装置がシンプルなのは経済的な都合もあるだろうが)。能でも作り物や小道具は出すが、そういった小道具も一切なし。蝋燭を除いて、煙管も手鞠も、蓑笠も、徹底して出さない。中央にあるはずの獅子頭も、背景にその眼だけを描いて示している。
 役者の動きも最小限で、語るときにジェスチャーを加えない。手を前で重ねて動かさないまま、台詞を語ることも多い。
 だからこの芝居では言葉が重要な部分を占める。もともと鏡花だから絢爛豪華な詞藻が散りばめられているが、それを語る役者も皆しっかりしている。
 特に富姫(こやまあい)が素晴らしい。登場まもなくの台詞「(蓑は)案山子に借りてきたのだものを」に、まずうっとりした。
 突っ慳貪に言い切ってしまうのでもない。語尾が下がったり弱くなって消えてしまうのでもない。最後までしっかりと響き微妙な高低があって、言いさしたそのあとの含みまできちんと表している。クライマックスで調子のいいリズムに流されてしまうきらいはあるが、全体として美しい言葉に乗って流れてしまわない、きりりとした意志的な台詞まわしが美しい。気っ風のいい江戸っ子のブルジョア(貴族でなく町人という意味)夫人、というふうはあるが(これは演出の指示で、鏡花は江戸弁、ということらしい。わたしなどは、舞台は姫路・白鷺城なのだから、あまりちゃきちゃきの江戸弁は…と思うのだが)。
 もうひとつ、特に美しいと思ったのは、図書之助が富姫に向かったときの折り目正しい所作だ。いかにも武人らしい端整な身のこなし。装置や道具の何もないところで、役者の声や身体が様式の美を作りだしている。

 場所は天守最上層。人間が怖れて足を踏み入れぬそこは魑魅魍魎の天下だ。女主人・富姫を猪苗代の亀姫が空を渡って訪ねてくる。化け物どもの麗しい宴の果てたのち、鷹匠・図書之助が逃げた鷹を探しに天守に上ってくる。富姫は図書之助に惹かれるが、現世に未練のある彼を地上に戻す。確かにここに来た証拠に、と富姫が持たせた城主家宝の兜が仇となって泥棒の汚名を着せられた図書之助は天守に逃げ込んでくる。

 幕開け、明かりが入ると舞台中央には桔梗、撫子、女郎花、と腰元たちの名の花が加賀紋のように描かれている。
 女たちの服装は古代東アジア風(高松塚古墳の壁画の女性像のような感じ)。地上の人間が弓矢、鉄砲を射かけるのに対して笑いさざめく声が、ちょっと凄い。天守は女たちが支配する唯美的な世界だ。
 一方、図書之助や同僚の男たちは軍服、迷彩服を着ている。男たちの地上世界はいくさが大好きな、力が支配する世界なのだろう。

 人間にはない不思議な力を持つ富姫だが、この場の力の源、地主神の師獅子頭の眼が傷つけられたことによって、眷属すべての目が見えなくなる。富姫と図書之助が死を覚悟したところへ工人が現れ、恋人たちを祝福して獅子頭の眼を彫り直す。

 獅子の眼が開けばすべての者の目が見えるようになる。工人の鑿は幻の美しい力を生み出す。彼は芸術家なのだ。「美しい人たち」と天守に向かって愛しげに呼びかけ、地上をさも軽蔑したように吐き捨てる彼は、この世ならぬ美を求めているのだろう。この舞台を作っている作者と同じだ。
 この工人の役を演出のキタモトマサヤが演じる。意図は明らかだが、それには彼が演出家だと観客が知っていることが前提になる。それはどうしたらいいのだろう。映画監督なら、ハンチングにメガホン、といった典型表現もあるのだが。

 終演後、役者たちは静かに舞台から降り、会場を出ていく。あとには空っぽの舞台だけが残る。どこか別の世界からひとときおりてきたモノが、一差し舞いやがて還っていく。それが舞台なのだ。

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