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幽閉 松岡永子
 白で統一された舞台空間。やわらかい布と積み重ねられた紙の質感。男一人、女二人。男だけが黒っぽい服を着ている。
 ヴィジュアルが、以前エレベーター企画が同じ劇場で上演した『授業』を思い出させる。あれも美しい舞台だったが、わたしには違和感が残った。まあそれはわたしが、メイドと女学生は似ているはずがないと思っているからだが。今回は戯曲に思い入れがないぶん素直に見られたと思う。

 ノルマンディ沖、絶海の孤島。大金持ちのロンクール老人がアゼルという若い娘と暮らしている。アゼルの看護のためフランソワーズが島に渡ってくる。

 劇中のコミュニケーションは一様ではない。人物はそれぞれ一部、意味を持たない音韻のみの言葉(原文ではない)をしゃべる。劇中の人物はそれを普通の台詞として取り扱う。観客には背後に映る字幕により意味が示される。
 言葉の音の部分だけを切り離して使う。言葉の内容には、情報伝達のレベル、もう少し幅を持った意味を伝えるレベル、感情を表そうとするレベル等々、いろいろな相があるが、どのタイプの言葉のときに音韻のみの言葉を使っているのか、その基準はわたしにはわからなかった。発話者が一般社会に近い位置に立っているとき普通の言葉をしゃべっている印象はあったが。

 男が娘を「幽閉」するために使っているのは「おまえの顔は事故で二目と見られないほど醜くなった」という嘘。真実を娘の目から隠すため、島からはガラス、水面などあらゆる鏡面が追放されている。男は二十年前にもアデルという少女を同じように「幽閉」していた。十年間の「幽閉」の後、アデルは海に身を投げた。また同じ罪を犯そうとしていると責めるフランソワーズに、男は自分の手元に娘を匿うことにやましさを感じない、と言う。

 彼女は一冊の美しい本である。

 人の目にも陽の光にもさらさずただ独占すること。美を死蔵することは罪だろうか。
 では、多くの者が享受できる場所に美を解放すること。美が消費され(現代社会では確かにすべてが消費されるのだ)手擦れした姿になることを許すことは罪だろうか。
 もっとも、男の手元にある限りそれはどちらの完成形でもない。他の人間の目には触れないし、一方、美にふさわしくない男の手が触れている。
 真実を知られたときには娘を喪う、と男は思っている。ずいぶん図式的な思考だが、事実そのときには、たとえば自分の愛の強さを言い立てて引き留めを図ったりしない。美しい娘を愛しているのではなく、娘の美しさを愛しているからだろう。劇中何度も愛を口にする男は、人間の愛、一人の娘の愛など信じていない。

 アゼルのために鏡面を持ち込もうとしたフランソワーズはロンクールによって閉じ込められる。部屋にあった本を積み重ねて高い窓から抜け出したフランソワーズは、真実を告げるためアゼルの部屋に走る。

 ひとつめの結末で、女は美をすべての者に平等に分け与える生活に漕ぎ出そうとしている。アデルもきっとそうだったのだ。身を投げたのではない。孤島から大陸まで泳ぎ渡ろうとした。ただ途中で力つきただけなのだ、と言いきかせる。

 そんなハッピーエンドの後、別の結末を書かずにはいられなかった、という筆者の辞が字幕に流れ、別の結末が始まる。

 もうひとつの結末。アゼルを海辺まで連れ出したフランソワーズは、陽の下で見る彼女の美しさに捕らわれる。真実を告げたという嘘にロンクールが身を投げた後、フランソワーズは彼になりかわって娘と暮らす。充分に年老いたとき、フランソワーズは真実を告げる。娘は、死蔵され美しさを浪費しなくてすんだことを感謝する。

 わたしは図書館派だ。所有することは恐ろしい。本は所蔵するものではなく、それを読むためのものだと考えている。しかし、ふたつめの結末に据わりの良さを感じるのは、たぶん、わたしも本が情報を伝えるためだけのものだとは感じていないからだろう。

 アフタートークで、字幕にかなり苦労したんだけど読めましたかね、といった話があったが、タイミング、字体など、とても静謐な感じがしてよかった。役者が前に立つので位置によっては見えない部分があるが、別に全部読める必要は感じない。
 その他、照明や衣装なども細部まで神経が行き届いていて綺麗だった。

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