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女性の打つ「道成寺」と「猩々乱」 松岡永子
女性の打つ「道成寺」と「猩々乱」

 大倉流小鼓方・久田舜一郎氏の還暦記念の会。ただし今会の最初と最後に演じられる能で鼓を打つのは舜一郎氏の弟子・高橋奈王子氏と長女・久田寿春子氏の女性ふたり。
 囃子方では少数である女性の出演する能を二番見られる珍しい会。

 最初の能は『猩々乱(喜多流)』
 猩々は酒の精。神なのか妖精なのか妖怪なのかよくわからないが、つま先立った足取りは酔っぱらいのようにも見え、無邪気な感じがかわいらしい。
 空中で大きく円を描く足の動きも他の曲ではあまり見られない。「人間でないもの」を描こうとする工夫がこういう形になったのかなあ、と思う。
 きらびやかでめでたい曲。

 大倉源次郎氏の一調、大槻文蔵氏の仕舞など、記念の会ならではの豪華な顔ぶれが続く。
 個人的に面白かったのは、久田勘鴎・勘吉郎父子による舞囃子『橋弁慶』。五条橋での出会い(『義経記』の話と違って、刀を集めているのは牛若丸)の場。物語の主従関係に現実の関係を重ねて見ているからだろうか、情愛のあり方が見える気がして面白かった。

 番組最後『道成寺(観世流)』。
 この会の目玉。この大曲の小鼓を女性が勤めるのは数十年ぶり。(「正確に何年ぶりかはわからないが、見たことがないので、三、四十年間なかったのは確か」久田舜一郎氏談)

 『道成寺』は安珍清姫伝説の後日談。鐘の中に隠れた僧を大蛇になった姫が焼き殺したのは、もう昔の話。舞台には姫も、姫から逃れようとする僧も現れない。ただ、残った妄執だけが姿を現す。
 新しくできた鐘の供養の日。供養の場は女人禁制だと住職は戒める。けれど能力は、ぜひ鐘を拝見したいという白拍子を入れてしまう。舞いながら近づいていった白拍子は鐘の中に消え、鐘は落ちる。住職は昔あった怖ろしい話(女が蛇となって若い僧を追い、焼き殺した話)を語って聞かせ、白拍子はその執念が形を取ったものだろうと言う。鐘の中から現れた鬼女(大蛇)は祈り伏せられ、姿を消す。

 シテの寺澤幸祐氏は小鼓方・陽春子氏の夫君。やはり若いだけあって動きのキレがいい。
自分の烏帽子を打ち落とし、鐘の縁に手を掛け跳び入るところではまさに、鐘の中に消えた、と見えた。思わず拍手した観客もいた。

 『道成寺』が鼓の難曲とされる理由、「乱拍子」。シテと小鼓の一騎打ちとも言われる。
白拍子が鐘に一歩づつ近づいていくところ。小鼓の気のこもった打音と長く尾を引く掛け声が、かなりの間をあけて繰り返される。シテはやや前屈みになった姿勢で静止し、鼓の声のたびにわずかに動く。緊張度の高い場面だ。
 力や肺活量で劣る女性が囃子方に向かないとされるのは、こういう場面のためだろう。

確かにギリギリ精一杯の力・声でやっていると感じられて、余裕はない。けれど、それが『道成寺』だとかえって面白く感じられる。
 抽象化しきれない「ギリギリ感」が、ここにあるのが恋の妄執だということを忘れさせない。
 能の演出は抽象で、その抽象化が物語られている情念を浄化しているのだと思われるところもある。けれど道成寺に現れる情念は決して浄化されない。

 稲妻が闇に走る。その時はっきり目に映るのは光ではない。闇の深さである。
 鼓の音が響くとき聞こえているのは鼓の音色でも声でもない。
 鼓が響き掛け声が消えていく、沈黙である。

 『道成寺』の浄化されない妄執はそういう種類のものなのだ、と思った。ほんとうに「道成寺をみた」と思った、貴重な体験だった。

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