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三人姉妹 松岡永子
 開場から開演までの間流れる音楽からジブリアニメのテーマ曲オムニバス。オタク色満載でいくぞー、という宣言のように聞こえる。マンガやゲームなどの「オタク的教養」やブランド知識があった方が芝居の細部を楽しめるのは確かだが、別にそんなものなくっても十分に面白い。
 まず、見た目が綺麗。三人姉妹は皆、それぞれに美しく可愛らしい(今回のトランスパンダは、主人公の魅力的な女性がなかた茜一人に偏らず、その分バランスがよかったかも)。
人物それぞれのためのコーディネイトも効果的。作中舞台に映されるイメージ的な映像(白い服の女など)も美しく、芝居全体とのバランスも悪くない。弟の撮った短編映画として、劇中劇のような形で上演される作品(水と火のように対照的な姉妹とひとりの男をめぐる愛憎劇)では、森下さんが一人三役で可憐で美しい少女を演じてもいる。
 何よりも、かんぜんに現代日本の話にリライトされているが、これは確かに『三人姉妹』だと思う。なぜそう思うのか、明確に言えないのだが、『三人姉妹』の戯曲を読んだときに感じたものがこの舞台にもあったということだ。

 日本を代表する著名漫画家であった父の死後、会社の経営失策により財産のほとんどを失った兄弟たち(ツキヨ、ユキエ、コウスケ、ハナコ)は、かつて別荘であった家で暮らしている。現在の田舎暮らしを疎ましく思っている彼らは「東京」へ帰ることを夢みるように語る。長女のツキヨは芸術系学校の教師。次女のユキエは東京栄転予定の会社員と結婚したが、転勤話がなくなってしまい実家に入り浸っている。三女のハナコはカリスマ読者モデルだった「東京」での日々を夢み、働くことへの希望を語る。彼女たちが父を嗣ぐ者として期待をかけているコウスケは絵も描き歌も歌い、マルチな才能を持っているがどれも中途半端。また彼の恋人サナエは、野暮ったく無神経で美意識のない田舎モノ、と嫌われている。

 雪月花の名を持ち、服のブランドを選ぶ美意識をアイデンティティとする彼女たちを見ていて、なるほど『三人姉妹』と『細雪』は案外近い世界なのかもしれないと思う。

 映画のロケ隊が「東京」からやってくる。その中の一人、俳優のアキラはやはり超有名漫画家の息子で、姉妹たちとは幼なじみ。リストカッターの妻を持ち、連絡のため携帯電話の電源を入れっぱなしにしている。ユキエはアキラと恋に落ちる。
 モデルのアマミヤと出版社社長ウカイの二人から想いを寄せられているハナコは、期待していたものとまったく違う現実の仕事に疲れている。コウスケと結婚したサナエは、HPから君島十和子ファッションをコピーし、家庭を支配しようとしている。

 台詞の中に何度も出てくる「働く」という言葉。労働は卑しい行為であり、まして労働する女など…という時代が過ぎてほんの少し、「良家の子女」が新しい意味を込めて口にする原作での響きはここにはない(戯曲に忠実に上演した舞台でも、今の日本ではその響きは持てない)。ただハナコがそれを口にしたとき、原作とはずれた形で、現代日本での若者の理想と現実のギャップを映している気がした。今どきの若者(特にフリーター)が、自分の適職(自己実現が果たせるやりがいのある仕事)と呼ぶものと現実の労働の単調さ退屈さとの隔たりの中で感じるとまどい、苛立ちのようなものだ。
 教師らしい(?)倫理感から、ツキヨはユキエの恋を認めない。愛ではなく幸せのために、ハナコにウカイとの結婚を勧める。ハナコはウカイと結婚して東京に行くことを決心する。
 映画の計画が頓挫し、ロケ隊はこの地を離れることになる。別れに臨んで、お互いに今抱えているものを放り出すことはできないけれど必要なときには飛んでくるから、とユキエに誓うアキラ。その姿を見ていたツキヨはユキエの愛のあり方を認め、ハナコにも、考え直すなら今のうちかも、と囁く。
 決闘話をでっち上げ、二人のうちどちらを愛しているのかはっきりしろと迫るウカイとアマミヤに、ハナコは二人をともに退け、一人で東京へ行く決意を告げる。

 原作との相違でわたしが一番気になったのは、「東京」は原作の「モスクワ」と同じような憧れの地だろうか、ということだ。日本は狭いし、現代の交通事情なら短時間で行けるから。しかしもちろん、この「東京」は現実にある場所ではない。東京とは有名ブランド店の連なりとして語られるものであり、父親が生きていた頃住んでいた気がする華やかで幸せなお伽の国だ。
 ティーン向け雑誌の中にある東京。カタログとしての都会。どこにでも幸せが並べ立ててあって、あなたが手に取るのを待っているのよ、と誘いかける街。それが「東京」だ。

 ウカイ、アマミヤの指摘に対して、「東京」が幻想だということは知っているとハナコは認める。知っていてわざと目を逸らしていた。現実を認めて、一人で東京に行くのだ、と告げる。それは婚約者に死なれた結果の受動的な決意ではなく、愛のない者(ハナコはウカイたちを愛していないし、ウカイたちはハナコをマンガのキャラクターを可愛がるように可愛がりたいだけ)と一緒にはいられないという主体的な決意だ。

 そしてまた、彼らは愛を信じている。愛されることよりも愛することを大切に思っている。父やコウスケ、それぞれのゴーストライターをつとめ報われなかった女たちも、わたしは愛したのだから後悔はない、と言う。
 女たちだけではない。原作と違い、コウスケは諦めからではなく、妻を愛しているから結婚生活を受け入れている。美意識をアイデンティティにする人々に囲まれ、見た目を気にしつづけてきた中ではじめて、何も気にしなくていいと思わせてくれた大切な人なのだ(つまりサナエには美意識がないから好き、ってこと?)と言う。これまでの生活の空虚を訴えるサナエに、これからがあるじゃないか、と言い抱きしめる。

 有名なラストの台詞———
(生きていかなければ…/何のために生きているのか、それがわかりさえすればねえ。)を語る三人姉妹に、平坦な未来や幸せが待っているとは思えない。
 チェーホフの『三人姉妹』は「なんとかしてよりよく生きたいというせつない願い—これこそがこの戯曲を貫いている強い気分で、女主人公たちは涙ながらにほかならぬこの人生の賛歌を歌っているのだ」(アンドレーエフ)と評された。
 さらに現代の三人姉妹は、自分と愛への信頼をより強く持っているようだ。


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同公演評
今どき口語体で蘇る古典 … 西尾雅

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