log osaka web magazine index

日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


2008年1月号 『たからづくし』今貂子+倚羅座

うーちゃんとくまさんのダンスのお話 (1) 
今貂子+倚羅座「たからづくし」 12月21〜22日 五條楽園歌舞練場

                                      Text: 上念省三



 けっこうコテコテのっていうか、舞踏らしい舞踏の公演だったよね。ちょっと珍しいかな、って思うぐらいの。今さんは白虎社創立に参加した「舞踏手」だから、そりゃそういう意味では本流なわけだし。秋江智文さんが下手の花道で白菜と戯れて口から吐き出したりしているのなんか、声出して笑っちゃった。

 ほんと、あえて遡れば『禁色』(土方巽)の白色レグホンが年を経て植物性になったみたいで。竜宮城の乙姫様のような鳴海姫子さん、妙に無表情なままコケティッシュに祝祭的な場末のキャバレー的雰囲気を醸し出した南弓子さん、そして瞽女歌や不思議なアリランに乗せて、男装の今さんと人形振りの森田紗希さんが口説きを舞ったりと、玉手箱から次々と宝ものが出てくるような、めくるめく楽しさ。思い返せば、それぞれがぼくたちを別々の時間へ、空間へ連れていってくれるようだったな。全部色合いも味わいも違っていて、一つとして同じ場所へは行かない。場面場面で、こちらに沸き起こる感情が全然違っていて、それが面白かった。すごく計算されたプログラムだったと思う。

 舞踏っていうと、つい「おどろおどろしい情念」とかって思うけど、そういう印象じゃなかったね。

 うん。舞踏って、自我の追求というのが、近代的自我じゃなくて、土着的自我へ向かったと受け止められていると思うけど、この「たからづくし」を観たあとの印象というのが、実にホンワカとしていて、ゆるやかに心地よい感じだったんだな。とっても愛らしくて、ドロップやビーズのようにきれいだったね。


 
 
 


 
 
 
                                  宣伝美術:伊藤みつ子 古川聡

 チラシ(宣伝美術=伊藤みつ子、古川さとし)や、河原町通りから見たときに建物に懸かっていた垂れ幕のきれいなイメージも重なってるよね。それは、悪いことじゃないよね?

 うん、現在の舞踏にとって、という意味でも、いいことだと思うし、決して稀薄化や軽量化ではなかったと思ってる。この印象にはね、会場の「五條楽園歌舞練場」という存在が大きく影響してると思うんだ。

 河原町五条からちょっと入っただけとは思えなかったよね。お茶屋さんがたくさんあって、高瀬川が流れる暗くて細い路地。時間が流れていないようだった。近所でそば菓子を買って会場に着くと、祇園甲部の歌舞練場なんかとは違って、ちょっとくたびれた感じだったけど、いろいろな思いや人生が染みついているようなたたずまいで、ちょっと広めの階段が立てるみしみしという音からも、いろんなドラマを想像した。二階の大広間が会場になってて、春草や秋草を描いた明るい色の華やかな緞帳、時代がかったスピーカーや投光器みたいな色スポット、提灯、歌舞伎小屋のような花道や桟敷席……公演の案内には「ひと・もの・ばしょに出会いながら、さまざまな挑戦を続けてきた今貂子+倚羅座は、今年「五條楽園歌舞練場」に出会いました。時の流れの中で、今もひっそり息づくパラダイス」とあったよ。

 きっとこの会場を発見、獲得したことが、この公演にとって最大の「お宝」だったんじゃないかな。


 
 
 
                                     撮影:ホイキシュウ

 わくわく感があったよね。会場に入って、畳に座って、きょろきょろ周りを見回しちゃった。

 そうだよね。でもね、見終わってあの不思議な空間の中で楽しかったなと満足しながらも、一番残念だったのは、なぜぼくたちはこの数十分を、もっと声高く笑ったり、やんややんやの喝采を送ったり、というように、一緒になって興じることができなかったんだろうか、ということだったんだ。

 でも、普通はそういうものでしょ? 声を出して笑ったりって、結構勇気がいるよ。

 うん。確かに今のぼくたちにとっての「普通」はそうなんだけどね、でも、あの会場の雰囲気といい、舞台の空気といい、なんだか日本酒でも飲みながら「やんややんや」というのがしっくりしたように思わない?

 なるほど……確かに芸術だの何だのっていうよりは、芸能っていうほうがしっくりするような造りだったかも。でも、どうしてもこちら側に、「芸術を鑑賞する」みたいな態度があるんだよね。

 芸能の空気というものが、この世界から稀薄になってるんだろうね。きっとそこには舞台上と客席が一体になって一つの空間と時間を享受するような、幸せな連帯感があったんだと思う。この間、「享受する」って言葉の英訳を調べたら、何のことはない、「enjoy」なんだよ。五條楽園歌舞練場という場所は、そういう楽しみ方を促すような、宴(うたげ)の場でありえたはずだと思うんだけど。


 
 
 
                                       撮影:三村博史

 くまさんの言う「芸能の空気」というものと、宴というものは、本来共通するものだったのかもしれないね。人々が宴の気分を求めて芸能の場に通いつめたり、宴に華やかさを求めて芸能者を呼んだりとか。

 大岡信さんの『うたげと孤心』(1978、集英社)からの孫引きだけど、大槻文彦の『言海』には「うたげ」は「掌ヲ拍上(ウチアゲ)」を約した言葉だ、『時代別国語大辞典』にも「ウチアゲ」とは「酒宴の際に手をたたくこと」だとあるというんだ。そこから大岡さんは和歌や歌物語の発祥について大胆な論を進めて行くんだけど、その庇も母屋も借りちゃうと、人が舞い踊るということなんて、まさにそんな場と同時に発生しているはずだよね。

 この間、テレビで「ミュージックフェア」を見てたら、他の出演者の話が面白かったようで、倖田來未が手を叩いて笑ってたけど、いかにも関西のオネエチャンで、かわいかった。酔っぱらってるんじゃなくても、手を叩いて笑って、盛り上がるってことはあるよね。

 大岡さんは和歌の贈答の成立とかについて、まさにそういうことを言ってるんだよ、省略するけど。踊りを見て、手を叩いて盛り上がる、というような場が、なかなか成立しない。

 さっきも言ったけど、声を出して笑うのと同じで、勇気がいるんだよ。大ぜいの中で笑ったり手を叩いたりって、自分の評価や判断を大っぴらにするってことだもん。宝塚なんて、拍手をするタイミングが完全に決められちゃってるでしょ。バレエだってそうだよ。自然発生的な拍手、というのが起きにくくなっちゃってるんじゃないの?

 しかしそのね、やんややんやと手をうちたくなる気運がうわーっと盛り上がってきて、みんなが思わず手をうってしまう、そういう「うたげ」として舞台が成立する可能性と、いわゆる舞踏が存在への徹底した下降であり、近代によって隠蔽された自我の再発見であったという金字塔とは、おそらく真っ向から反発し合うだろうと思う。そこに現在の舞踏の難しいところがあるんだろうな。だからね、それを意図したどうかは別として、今さんの今回の公演からはっきりと見えたのは、自己を垂直に掘り削ることで新たな何ものかを発見しようという方向性ではなくて、世界を水平にずらすことで、自分自身が座する場所を変え、わが身を置く風景、自身から見える風景を変えてみるという試みだったように思えるんだよ。

 手術じゃなくて転地療法かな。


 
 
 
                                       撮影:三村博史

 これまた大岡さんの枠組みを借りれば、孤りであることを自分に課すことによって本当の唯一の自分自身を見つけようという方向性と、うたげの中で他者との出会いによってその差異から自分自身を見つけようという方向性とは、非常に厳しくせめぎあいながらも、奇跡的に両立する可能性はあるだろうね。ただ、そういう奇跡的な幸福よりも、大岡さんが問題にしていて、舞踏にとってもポストモダンとか言われがちな現在にとっても問題だと思われるのは、表現というものが一貫性のある自我を追求しなければいけないものなのかどうか、ということのようなんだ。

 近代的自我というものを、近現代の芸術は追求してきたはずだし、それはだいたい一人称の表現として成立するモダンダンスにとっては当たり前の問いかけだったわけだよね。

 と、ぼくのような古いタイプの観客は思っているわけだよ。そういう意味で、舞踏はモダンダンスの日本的形態の一つだと考えてきたわけ。それが、この今さんの公演を全体として振り返ると、繰り返しになるけど「たからづくし」というタイトルがよく表わしているように、いろいろなものが詰め込まれていて、必ずしも一貫性が強調されるわけではなくて、逆に多様性が強調されたと言ってもいいだろうね。場面場面相互にゆるい関連性を無理に見つけてもいいかもしれないけど、バラバラなものとして楽しんで正解だったと思う。その意味で、モダン後、あるいは反モダンといっても大げさじゃなかったと思う。

 次々に変わる舞台美術や衣裳がきれいで、いろいろな舞台機構を使って、次はどんな世界を見せてくれるんだろう、とワクワクしたね。

 そういう「尽くし」があったね。それはきっとね、自我への遡求が垂直的な深まりだとすると、平面的、水平的な広がりだと思う。だから、五條楽園歌舞練場という特異なオーラを持った空間の発見が大きな意味を持ったんだと思う。


 
 
 
                                      撮影:ホイキシュウ

 それで、その空間の中に、観客としてぼくたちも一体化して、「やんややんや」すべきだったというんだね。

 そういうこと。芸術空間というのは、制度としての美術館や劇場やコンサートホールの中に成立しやすくて、そこでぼくたちは眉間にしわを寄せて芸術鑑賞をするわけだけど、祝祭的空間というのは、今やその成立そのものからして難しいんだろうね。それはきっと、ある特定な場に人々が共同体として集うような形でないと、難しいんじゃないかな。そのこと自体、何だか珍しいことになってしまってるよね。

 じゃあ、ぼくたちはどうしたらいいんだろう?そんな共同体なんて、今さら持てないんじゃないの?

 そうだなぁ…まず見せる側にね、何か祝祭空間を演出する仕掛けが必要なんだと思う。その前に、自分たちが出現させようとしている世界が、そういうものなんだという認識というか覚悟というか開き直り、そういうものも必要だろうね。劇場を一時的にせよ一つの共同体として束ねることができれば、何かが生まれてくるんじゃないかな。平凡だけど、それってオーラかな。そういうものを生み出しやすい空間と、そうなりにくい空間はあると思う。この五條楽園歌舞練場には、大いにその可能性があると思うね。

 また、ここで見たいね。



上念省三:演劇、宝塚歌劇、舞踊評論。「ダンスの時間」プロデューサー。神戸学院大学非常勤講師(芸術享受論実習)。 http://homepage3.nifty.com/kansai-dnp/

<< back page 1 2 3 next >>
TOP > dance+ > > 2008年1月号 『たからづくし』今貂子+倚羅座
Copyright (c) log All Rights Reserved.