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日々是ダンス。踊る心と体から無節操に→をのばした読み物


09 空腹の技法 その2 山下残

<テクストの記録性、メディア性 『せきをしてもひとり』と『せき』>


 
  宣伝美術:納谷衣美絵:山尾圭介
 
出てきた言葉とダンスって、ずれますよね。それは、本人がやっていることと言葉の意味のずれかも知れないし、でも見ている人にとっては、意外にぴったりで笑えたり。ダンスと言葉の距離というか、やっている人と見ている人の分裂、距離を意識させられて不思議でした。

山下:それは、あれに近いかな。僕、写真をとる感覚が好きで、でも自分がとった写真は嫌いなんです。そういう、カシャっと人の踊りを写真にとるような感覚に近いかな。深く突っ込まない。ものを書くときもそう。僕、日記を書くのが好きなんですけれど、ブログとかは苦手で。それは人に公表するとかじゃなくて、自分のためだけに書きたいからなんですよ。で、毎日続けるには、あんまり自分の中に深く入って行かずに、「今日は〜をした」とか、「〜へ行った」とか、記録ですよね。ちょっとでも「楽しかった」あるいは「面白くなかった」と入れると、しんどいんですよ。ひたすらそういう記録とか…。ダンスにつながるかわからないけど、僕ちっちゃいとき自分の爪とか集めるのが好きで。ちょっと現代アートみたいだけど、切った爪とか、髪の毛とかを。子供だからそれがどうとかは意識してなくて、単に自分の体から出た意味のないものを集めていくっていうのが好きだったみたい。そんな感じであまり言葉に突っ込まずに、写真みたいに、機械を扱えない男が一番ロウテクな方法でものを蓄積していく、みたいな。それで手っ取り早い素材が言葉、みたいな。そんな感じ。

意味づけしない記録って、後で読んだときに解釈の可能性がいっぱいあって、面白いですね。記録といえば、ダンスを言葉にされたきっかけのひとつに、野村誠さんに「楽譜があれば自分の作品はいつでも演奏できる」と言われて、ダンスの楽譜を、というお話をうかがったことがあります。実際に、そういった楽譜的な使い方で動きを再生されたのは?

山下:それは、自分の今までの作品を集めた『そこに書いてある』だけですね。あれに関しては、それまでの作品というか、ダンスを使ってます。半分くらいっていってもいいかも知れない。

次の作品、『せきをしてもひとり』では、尾崎放哉のテクストが元になって。いちばん意外だったのは、テクストがワープロをカタカタ叩くように、機械的にスクリーンに映し出されたことです。

山下:あれも、ダンスの戯曲みたいなものがつくりたいなと思ったんですよ。見てる人はあまりわからなかったそうなんですけれども、横に「吸って、吐いて」のマークが全部ついているんですね。全部10コセットで出てきて、僕はそれに合わせて「吸って、吐いて」をやっている。だから、『そこに書いてある』をより細かく呼吸で分節して、やっていった感じなんですけれども。そのとき『そこに書いてある』のときみたいに、妙に絵文字とか、手書き文字とかを使うと、あまり面白くないかなと思ったんですよね。僕の呼吸の回数を淡々と行っているっていうものが見せたかったから。だからああいう無機質な感じでするしか、思いつかなかったですね。

呼吸は身体から出るものだし、尾崎放哉のテクストも、とても身体的な感覚と結びついている。あの作品で山下さんは、ソロで出演されていることもあって、ダンサーの方向に戻られたというか。アフタートークで呼吸に関心があること、すごく体の練習したことをお話されていて、単純に納得しました。その一方で、テクストは、スクリーンにカタカタ映しだされる。賞の選評で、太田省吾さんも「ショッキング」とコメントされてましたけど。

山下:単純に、本をやって、しゃべって、次は映像ってのは、わりと早くからあったんですよね。で映像で言葉を使うってことは、何よりも早くありました。

練習の過程では声を出して読んだりは?

山下:それはやらなかったですね。太田省吾さんならやったかも知れないけれど。黙読して、これをどうしようか…て。

テクストを話されることに、特に抵抗は?

山下:全くないですね。それで『聞こえる、あなた?—fuga#3』に出演した時、太田さんにさんざん懲らしめられましたけれど。(笑)

うまく質問にならないかも知れないけど、ここ2年くらいに見た実験的な演劇作品で気になっているのが、要の台詞というか、テクストを、役者さんがまともに声にしないことなんですよ。で、スクリーンに写し出されたりする。肉声に託して内面や現実を伝えるのは演劇の使命やないのん?と思っていたのですが、どうも言葉に敏感な方ほどそういった傾向があるような。それで、山下さんがダンスの方から、似たような手法をとられているのが面白かった。とはいえ、見る側にしてみればダンスの部分に期待もするわけで、ああいったテクストの出し方をされると違和感というか…。

山下:結構難しかった。反省は残っているのよねえ。自分でやってみて。3部作の最後はソロでやりたいっていうのは、映像を使うことと同じくらい、初めからあったんですよ。だから、もしかしたら『せき』でやったことを誰か他の人にやってもらって、僕が演出をするっていう可能性も、今となっては思うんですけれど。あの作品、後でビデオ見返すと、もうちょっとこうだったらっていうところがありましたね。自分1人しか出ていないで、それを演出するのは難しかったですね。

でも観客にギャップを突きつけるのは、常に確信犯ですよね?言ってしまえば、こんなんダンスじゃないわって言ってもいいような作品をつくられるのは。

山下:確信犯か、うーん…。実は僕としては、京都造形芸術大学でやった『せきをしてもひとり』が一番気に入っているんですけれどね。というのは、同じやり方をした作品でも、「アイホール」の時は1回造形で実験をして、これで行こうってことが明確になっているんですよね。でも造形のときは、あれいちおう賞もらいましたけど(2004年、京都芸術センター舞台芸術賞受賞)そんなんもらえるとか全然意識してなくて、ようわからんけど、とりあえず映像使って尾崎放哉使ってなんかやろうかって、うじゃっと、もじゃもじゃした感じでやるんですよ。そうしたときのほうが結果的に面白かったりするかな、と。まあその辺は計算してできないですけれど。毎回もやもやした感じで作品に取り組んでたら身が持たないですし、確信犯的にやらないといけないチャンスもありますから。とりあえずこれをやろうっていうことで、いろんなパーツは決まっているけれど、それをどう組み合わせて行こうかっていうところで、あれは3部作の中で一番面白かったですね。

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